Musikfreund−名盤への招待

お気に入りのクラシックCDや海外のライブ録音を気ままに紹介するムジークフロイント

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
1968年9月18〜24日 ベルリン、イエス・キリスト教会(ステレオ録音)
CDROM1.gifDeutsche Grammphon 463 613-2

Prokofiev: Symphony Nr.5 B-dur op.100 [43:29]
 1. Andanteo [13:03]
 2. Allegro marcato [8:11]
 3. Adagio [13:01]
4. Allegro giocoso [9:14]

Hervert von Karajan, dirigent
Berliner Philharmoniker
Aufname:1968.9.18-24 Jesus-Christus-Kirche, Berlin (Stereo)
Executive Producer: Otto Gerdes
Recordihg Producer: Hans Weber
Tonmeister: Günter Hermanns
Recording Engineers: Volker Martin, Jobst Eberhardt,Joachim Niss


演奏★★★★★ 録音★★★★       [評価が2点、が1点の10点満点]


お気に入りのCDや海外のライブ録音を気ままに紹介する Musikfreund(ムジークフロイント)。本日は、カラヤン指揮ベルリンフィル演奏で、プロコフィエフの交響曲第5番を聴く。

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プロコフィエフの交響曲第5番は、カラヤンのレコードの中では比較的地味な存在で話題にのぼることは少ない。わが国では1969年7月にLP(MG2078)が発売されてから、19年後の1988年にようやく再発売(F26G29043)され、その後CDになってからも2回再発売(POCG6054/1998年、UCCG9454/2003年)されているにすぎない。

この曲に関してはデジタルによる再録音が行われなかったが、これはプロコフィエフの作品自体の人気の問題というよりは、あまりにも完成度の高い演奏であったがゆえに、敢えて録り直す必要がなかったと考えてよいのではなかろうか。名人をそろえたベルリンフィルの高度な技能を存分に発揮し、彼らの手の内に収めたレパートリーの1つとして自信をもって世に出されたレコードであったはずだ。

プロコフィエフの交響曲第5番が録音された1968年というのは、カラヤンがソ連の音楽家と競演したりして、しだいにソ連との関係を深めていった時期にあたる。すでにオイストラフリヒテルとの夢の競演が実現していたが、この録音はベルリンでのロストロポーヴィチとのレコーディング(ドヴォルザークのチェロ協奏曲)と同じ時期にあたる。9月21、23、24日という日付はプロコフィエフの録音データと重なっている。

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この翌年の5月にカラヤンはベルリンフィルを率いてモスクワ公演を行い、ショスタコーヴィチ交響曲第10番を演奏している(レコーディングは1966年)。ソヴィエト進出を視野に入れていたカラヤンは現代ロシア音楽にも触手を伸ばして、したたかにレパートリーを広げていたにちがいない。

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この時期のカラヤンは、ベルリンフィルの音楽監督になってすでに13年目。飛ぶ鳥を落とすがごとく勢いで楽界に君臨し、その地位を揺るぎないものにしていた。 「帝王」の名にふさわしい超豪華なオーケストラ・メンバーを取りそろえ、その全盛期を謳歌していた。自らの理想とする音楽を創り上げるための手駒となる最強の布陣が完成した時期でもあった。

弦楽器はシュヴァルベ、ブランディス、シュピーラーを第1コンサート・マスターに、マース、ウェストファル(2Vn)、カッポーネ、キルヒナー(Vla)、フィンケ、ベトヒャー(Vc)、ウイット、ツェペリッツ(Cb)、管楽器はデムラー、ツェラー(Fl)、コッホ、シュタンス(Ob)、ライスター、シュテール(Cl)、ブラウン、ピースク(Fg)、ザイフェルト、ハウプトマン(Hr)、アイヒラー、ウェーゼニク(Tp)、ドムス、ウテシュ(Trb)、ユルゲンス(Tb)、打楽器のテーリヘン(Tim)といった名人たちが首席奏者として固定され、黄金の70年代をむかえようとしていた。

「カラヤンはまずベルリン・フィルの音質を完全に美麗化することで、ドイツの代表的オーケストラが世界のオーケストラ界で地方化する危険を防止しただけでなく、むしろ積極的に新しい管弦楽育成への道をきりひらいたのであった。そのためには優秀な外国人をどしどし入団させたし、技術導入の方策がとられたこともあったようだ。音楽のうえでのそういう努力が、戦後きわめて特殊な生き方をしなければならなかった西ベルリンという土壌でやすやすと次元に運んだ幸運を彼は存分に味わったであろう。」


「カラヤンはずいぶんたくさんの仕事をしてきたけれども、究極のところはベルリン・フィルを彼の指揮者としての完全な道具に仕立ておおせたことが一番顕著な成果であった。いまかりに彼とベルリン・フィルとを断ち切ってしまったら、とたんに彼は両方のハサミを落としたカニのようなものかもしれない。彼がいま現実に音楽的にすばらしい生命力を示すことが出来るのは、このベルリン・フィルというハサミのおかげであり、少し極端にいえばこの共同作業の栄光あってこそ彼はパリでもウィーンでも野良犬にならずにいられるのである。」 (以上、 大木正興著「カラヤンの美学」より、『カラヤンの世界』、学習研究社、1977年)


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カラヤンがベルリンフィルを指揮したプロコフィエフ交響曲第5番を筆者が聴いたのは、1980年2月15日のフィルハーモニーでの定期ツィクルス(自由ベルリン放送)と、同年9月1日にルツェルン音楽祭のコンサート(クンストハウス)がFMで放送された時のことだ。後者は「世界で初のPCM録音」という触れ込みでスイス放送協会によって収録されたものだが、弦楽器が奥に引っ込み、冷凍付けして味の抜けたような管楽器の音にずいぶんと違和感をおぼえた記憶がある。

しかしこの時のカラヤンの演奏は、それはもうべルリンフィルの高度な技能を見せつけた超絶的な演奏といってよく、アクロバット・サーカスの曲芸さながらのオーケストラのスーパー・パフォーマンスに飛び上がって驚いたものだ。演奏会記録によれば、カラヤンはこの曲を生涯で24回演奏し、ルツェルンでの演奏が最後のものになった。

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プロコフィエフの交響曲第5番はソ連時代の円熟期に書かれた曲で、第1番の「古典交響曲」と並び、プロコフィエフの交響曲の中でも特にすぐれた作品のひとつである。ナチス・ドイツのソ連侵攻に対して強い憤りを感じたという作曲者が祖国愛に目覚め、国家に貢献するための方策として壮大な音楽を念頭に作曲したとされる。そして確実にくると思われた最後の勝利の瞬間を予言したいという気持ちを込めて筆が進められた。

20世紀前半のモダニズム音楽の雰囲気を残しながらも、古典的なわかりやすい形式に従って書かれ、そこに和声的な工夫や新しい技巧を組み合わせた今世紀最高傑作のシンフォニーの1つに数えられている。プロコフィエフ特有の跳躍的なリズム叙情的なメロディーがふんだんに盛り込まれ、非常にわかりやすい曲に仕上げられている。

3管の小振りの編成によって書かれているが、ティンパニ、ピアノ、ハープ、トライアングル、タンブリン、タムタム(銅鑼)、シンバル、大太鼓、小太鼓、ウッドブロックといった豪勢な打楽器が効果的に活用され、かなりの技巧を必要とする難曲といってもよい。とくにウッドブロック(タンブロ・ディ・レーニョ)小太鼓(タンブロ)がかけ合いで大活躍する場面は、聴き手の興奮を呼ぶ。

このような技巧の粋が凝らされた難曲は、やはりヴィルトゥオーゾ・オーケストラで聴いてみたいと思うのは音楽ファンの偽らざる心理であろう。その意味ではカラヤン=ベルリンフィルはうってつけの役者であり、この曲をゴージャスなサウンドによってドラマチックに聴かせるところは他の指揮者に比べてカラヤンが一枚も二枚も上手であり、演出の巧さにかけてはその右に出る者はいない。

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妖艶ともいえる弦の扱い、これに溶け合う木管楽器の音色の微妙な色合い、ドイツ色の濃いブラスの剛毅な響きが渾然一体となって劇的なドラマが繰り広げられている。特に第3楽章の抒情的な表現は比類がなく、加えてフィナーレにおける凄腕の名人たちの統率されたパフォーマンスの見事さは想像を絶するもので、 「これは彼らのために書かれた曲ではないかしら」と聴き手に思わせてしまうほどだ。

「第5番はカラヤン風の表現で、両端楽章ではときにウェットでロマン的とさえいえる表情がつくられている。つまりプロコフィエフのもつ乾いたモダニズムとは縁遠い表現で、そこにカラヤンの個性が歴然と浮かび上がってくるのである。」 小石忠男氏による月評 『レコード芸術』 通巻452号より、音楽之友社、1988年)


「第1番《古典交響曲》が81年録音であるのに対し、第5番のレコーディングは68年に行われている。ファンにとっては、両者の間に聴かれる演奏・解釈のスタイルの変化に耳を傾けて見ることも一興だろう。第5番での鋼のような強靱さとともにしなやかさをも兼ね備えた音楽の魅力もさることながら、《古典》でカラヤンが聴かせるバランスのよい音楽創りもまた、彼の資質の最良の部分の現れである。」 岡部真一郎氏による月評『レコード芸術』通巻574号より、音楽之友社、1998年)


「プロコフィエフの交響曲は、初期の数作を除き、番号で呼ばれているものだけをとっても7曲あるが、それらの中でいわば頂点をなす作品が、1944年に完成された第5番であることは、大方の人が認めるところであろう。現在では、この作品についてもかなりの数にのぼる録音があり、定評のあるものもいくつかあるが、作曲から24年も後にカラヤンとベルリン・フィルとによって収録されたこの演奏は、オーケストラの最も好ましい時代にあった時のものであり、カラヤンも、いわば聴かせ上手という以上にこの作品の真価を強く印象づけるような自信に満ちたアプローチをみせている。そのスケールの大きい表現には、高度の造形性と深い内容が溢れている。」 『クラシック名盤大全・交響曲編』より藤田由之氏による、音楽之友社、1998年)


「現在までカラヤン唯一のプロコフィエフの交響曲。このプロコフィエフの最高傑作を、カラヤンとベルリン・フィルは色彩の変化も鮮やかに精妙に表現している。」 レコード芸術別冊「カラヤン&ベルリン・フィル」、カラヤン・ディスコグラフィ・カタログより、音楽之友社、1981年)


「かなりハードなこの曲が耳当たりよく再現され、しかもスケール大。」 吉井亜彦著『名曲鑑定百科・交響曲編』、春秋社、1997年)


「第5番は68年9月、ベルリンのイエス・キリスト教会での録音。鮮度、クオリティともやや低く、距離感、広がり感、解像度にも第1番と差異があり、通して聴くと違和感は否めない。」 三井啓介氏による録音評『レコード芸術』通巻452号より、同上)


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第1楽章、アンダンテ、4分の3拍子

ロシアの民族調の第1主題がフルートとファゴットによってゆったりと奏でられ、バス・クラリネットが生々しく加わってくる音場はドイツ・グラモフォンらしい克明な音づくりで、現在でも決して色褪せていない。エスプレッシーヴォのメゾフォルテで滑り込むようにはいってくる弦楽器の上手いこと! カラヤンは後期ロマン派音楽と何ら変わらぬ調理法によって、旋律線にレガートをかけてこってりと歌い上げている。

歯切れ良く打ち込む小太鼓、副主題をたっぷりと盛りつける線の太い低音弦、上滑りするかのような1stヴァイオリンが華麗に加わる音楽は、 「氷上を滑走する重戦車」(柴田南雄氏)のごとく聴き手に威圧感をあたえ、その表情はすこぶる濃厚である。

一糸乱れぬ整然さで進行してゆくこの楽団の演奏スタイルは、高性能の武器を手にし、高度な訓練をうけた軍隊の行軍のようでもあり、これをものの見事に統率する帝王カラヤンの手綱さばきが光っている。

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ポコ・ピウ・モッソ(練習番号6)で歌われる抒情的な第2主題もベルリンフィルの高性能な弦楽器の独壇場だ。3連音の伴奏にのって妖艶に揺れる弦楽のしらべは美麗の限りを尽くしたもので、付点音符を大きく引き延ばし、テヌートを効かせて音階をぐいぐいと上りつめてゆく。これを受けてトランペットのカンタービレが燦然と輝くところは名人芸が極まった感がある。

展開部の第1主題も生きもののように動めく弦楽器が巧みにリードする。なめらかな1stヴァイオリンに豊かなチェロがたっぷりと重ね合わされると感興が大きく高まってくる。極めつけは、小躍りするようなスタッカートの第3主題(練習番号13)。

管の打ち込みの狭間を縫うように、5連音でなめらかに上昇する弦のユニゾンの華麗なる弓さばきには腰を抜かしてしまう。そのまま豪快に第2主題に突入し、トランペットが決然とメロディを奏でるところ(練習番号14)は興奮して思わず指揮をしたい衝動にかられてしまう。

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再現部は第1主題を剛毅な管と重厚な弦が、ねばっこく打ち合うところは劇性が大きく高められているが、なんといってもコーダの音楽が圧倒的だ。トロンボーンとテューバが息長く打ち放たれると、総奏によって3連符をこってりと打ち返すこのオーケストラの威圧感にみちた重厚さはいかばかりであろう。

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とどめは銅鑼、大太鼓とシンバルを情け容赦なく交互にぶちかまして聴く者を震撼させる。壮大ともいうべき和音の打撃は、巨大なオーケストラの圧倒的なパワーによってねじ伏せ、それを誇示するかのようなカラヤンの気力の充実ぶりを物語っている。「ここまでやるか?」と思わせるほどの轟然たる音響の嵐は圧巻で、これをものの見事にとらえたグラモフォンの録音にも脱帽だ。まさに「カラヤン劇場ここにあり」といった感がある。



第2楽章、「スケルツォ」アレグロ・マルカート、4分の4拍子

オスティナートの弦のスタッカート伴奏にのって、クラリネットが半音階進行する飛び跳ねるような皮肉を込めた第1主題の音楽は、精密機械のようなベルリンフィルの巧緻な合奏能力が大きくものをいう。

第1主題を3回繰り返したあとの変奏(練習番号30)でオーボエ、コールアングレに続いて弦が上拍から「すうっ」とはいってくるところや、第2楽句(練習番号31)を弱音器をつけて艶めかしく揺れ動く弦のフレージングの見事さには舌を巻く。跳躍的な音型の変奏(練習番号32)では狙ったところにピタリと決まる弓さばきや、小太鼓とウッドブロックのリズム打ちの精度の確かさといった名人芸のオンパレードに開いた口が塞がらない。

このような演奏を聴くと、楽天球団を退任した野村克也監督が、原ジャイアンツのリーグ3連覇の報をうけて、ボヤいた言葉を思い出さずにはいられない。 「うらやましい限り。おれも一度でいいから、ああいう強いチームを指揮したかった・・・」(2009年9月23日)

中間部(トリオ)メノ・モッソ(練習番号36)の狂おしいオーボエ、クラリネットの表情の濃さと音色の美しさも出色のものだが、ピウ・モッソではジュスト・カッポーネ率いるヴィオラ奏者の腕の見せどころだ。メロディアスな音楽はきわめて速いテンポによって、レガートをかけてラプソディックに歌われる。

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これに彩りを添えるヴァイオリンの弱音の合いの手は、羽毛のようなデリカシーあふれる肌触りで哀愁すら漂わせている。腰の強いブラスに対峙する躍動感あふれる弦楽の「跳躍ワザ」は曲芸としか言いようがなく、その名人芸を心ゆくまで堪能させてくれるのだ。

行進曲調のリステッソ・テンポ(練習番号48)は暗色を帯びたトランペットと弦のピッツィカートによって切迫しながらテンポを速め、スケルツォの主題へと一気果敢に回帰する。いよいよ、ここからベルリンフィルがさらなる高度な技能を存分に発揮する。

速いテンポで急迫的に追い込みながら、熱狂的なクライマックスへと突入するところは思わず鳥肌が立ってくる。メリハリをつけた管の苛烈なメロディーに弦の急降下音型が執拗に絡みつくところは、複雑な歯車のパズルがピタリと噛み合わされたかのように決まっている。

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カラヤンはこの楽団のアクロバットのようなテクニックを駆使して細部の精巧な紡ぎ目を磨き上げ、これを存分に誇示するが、あくまで抵抗のない自然ななめらかさで勝負しているところが心憎い。フィニッシュの手前(練習番号57)で極端に音量を落としてから、一気呵成にクレッシェンドしてとどめを決めるところも大道芸人的で、俗耳にはたいへんわかりやすい。

「あの当時カラヤンは、メンバーの名人芸の上に展開される即興演奏が面白くでたまらぬ、といった風情であった。」 柴田南雄著『私のレコード談話室演奏−スタイル今と昔』より、朝日新聞社、1979年)




第3楽章、アダージオ、4分の3拍子

もっともカラヤンの肌に合っているのはアダージオで、音楽は詩的情緒に満ち溢れている。クラリネットによる抒情的な第1主題に拍子が変わるところでフルートが加わると、ノクターン(夜想曲)のごとく稟とした澄み切った空気が漂ってくる。練習番号59から滑り込むように入ってくる妖艶な弦楽器の美しさには思わず聴き惚れてしまう。

練習番号60で弦の奏でる第1主題は高音域のみずみずしくも美しいハーモニーが香り立ち、磨き抜いたレガートによって美麗の限りを尽くして歌われる。これはもう「カラヤン美学」の極地としか言いようがなく、ナルシストのカラヤンは聴き手を酔わせると同時に自らの奏でる音楽に酔っているに相違ない。練習番号64でテューバと低音弦による副主題はロシアの大地を思わせる厚味のある響きが印象的だ。

ハ短調の第2主題は執拗な不協和的な打撃によってクライマックスを形成する。一糸乱れぬ木管群とヴァイオリンの急降下音型、シンバル、小太鼓、大太鼓、銅鑼といった打楽器群が加わってオーケストラがその威力を思う存分に発揮する。華麗なオーケストレーションによって音楽は色彩感を増し、なおかつ刺激的に展開するところはカラヤンの得意とするところで、自信たっぷりにオーケストラを統率し、プロコフィエフの音楽を赤子の手をひねるかのようにゴージャスで壮麗な音楽に仕立て上げてゆく。

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第1主題が再現する弦のエスプレッシーヴォは唖然とするほかはない。カラヤンは秘術の限りを尽くして極限までフレーズを磨き抜き、これを耽美的に紡いでゆくところはおよそ人間ワザとは思えない。ここまでやって良いものかしら、と聴き手に思わせてしまう彼らの究極のパフォーマンスにとどめをさす。

「カラヤンの指揮においては弱音による精細をきわめた微視的な指揮と、豪壮な爆発的盛り上がりとの間の間の幅はいちじるしく拡張され、完成されたベルリン・フィルの機能がその大きな距離を自由自在に埋めてゆく壮観にわれわれはいつも舌を巻かされるのである。この際も別に私たちは表現の新しい思想も理念も見出すわけではない。すべてはいままで多くの指揮者たちが部分的にはそうしたいと思っていたことばかりで、予想的にもなかったものはいっさいないのである。ただこの幅の広さを両股完全に開いて踏み跨いだ人がいなかったのに、彼がそれをあまりに苦もなくやってみせていることには素朴な驚きはやはり禁じえない。」 大木正興著「カラヤンの美学」より、『カラヤンの世界』、学習研究社、1977年)




第4楽章、アレグロ・ジオコーソ、2分の2拍子

4声に分かれたチェロによって第1楽章の主題がこってりと回想されると、ヴィオラの刻みによってロンド主題が早いテンポで導き出される。この楽章をリードするのは第1主題を主奏するクラリネットだ。上行音型にアクセントをつけた小気味よい主題をピッツィカートの伴奏にのって、じつに気持ちよさそうに吹いている。

8分音符の連続するリズム打ちにのって、ヴァイオリンの16音符の小刻みのスタッカート主題に力強いバスの後打ちが「ガツン」と打ち込まれると、舞曲というよりは行進曲の様相を帯びてくる。狂おしい道化的な第2楽句(練習番号83)は、これを早ワザで料理するローター・コッホ(オーボエ)の独壇場だ。調子っぱずれの小クラリネットやフルート、ピッコロ、ピアノが加わると音楽に華やぎすら増してくる。

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中間部(練習番号85)に登場する第2主題は、まったりとした妖しい調べがフルートによって導びかれる。これを受けて流れるように浮遊する弦楽のしなやかな弓さばきが印象的だ。クラリネットの第1主題が再現すると、なめらかな16音符の11連音によって優雅に歌い上げる弦楽の歌は美感にあふれ、フレージングは徹底して練り上げられている。

テンポ・プリモ(練習番号93)はロシア風の第3主題が低音弦によってたっぷりと歌われる。これがフーガ風に展開すると、いよいよ乱痴気騒ぎの熱狂的な場面をむかえる。木魚のようなウッドブロックが「ぽこぽこ」と打たれ、管と弦が14連音で上昇してリズム主題へと転換する。シンコペーションの打ち込み小刻みの跳躍主題が交互に打たれて音楽はいよいよ熱気を帯びてくる。

最大の聴きどころはスタッカート主題が展開する再現部の練習番号107。4本のホルンが第1主題をたっぷり歌い上げると、リズムが切り立ち、小太鼓が「スッタカタッタ」「スッタカタッタ」と急迫的に追い込んでくる。

ブラスが厚く歌い、弦が跳躍し、木管が7連音+トリルで「ひょ〜う」と絶叫する手に汗握る即興的な展開はまさしく「カラヤン・サーカス」。錯綜するリズムを鮮やかに捌き、名手たちの曲芸によって聴き手の興奮を巧みに誘うツボを押さえたカラヤンの術は見事というほかはない。

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クライマックスはトランペットが主題を絶叫する練習番号111。付点音符を極限まで引き延ばし、突き刺すように打ち放つ。「ぽっぽこ・ぽっぽこ」とせわしく叩くウッドブロックと小太鼓の苛烈なリズム打ちが精密機械のように容赦なくせめぎ合うところは圧巻だ! シンパルと大太鼓を力の限りぶちかまし、音響の洪水のごとくフィナーレへとなだれ込んでゆく。

フィナーレは突如音量を絞って、弦楽器のトップ奏者のみによってオスティナート的に刻みの主題が紡がれるところは作曲者が聴き手の意表を突いたところである。精密機械のようなボウイングによって統率された演奏をやってのけるトップ奏者たち。

最後の3小節でトランペットが全音符で打たれると、滑り込むような総奏によって一気呵成にクレッシェンドして壮絶に幕を引くところは、あたかもジェットコースターに乗ったかのようなスリリングな刺激と興奮を聴き手に与えてくれるのである。

「あの頃のカラヤンはメンバーの名人技に寄りかかった、綱渡りのようなスリルに充ちた演奏に熱中していた。」 柴田南雄著『私のレコード談話室演奏−スタイル今と昔』より、朝日新聞社、1979年)


これは当時「帝王」の名をほしいままにしていたカラヤンが、プロコフィエフの音楽をその美学によって磨き上げ、巧妙に計算したドラマチックな演出とゴージャスな音響によって聴き手を酔わせた類いまれな名演奏で、全盛期のベルリンフィルの名人芸を余すところなく発揮した極めつけの1枚である。


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テーマ:クラシック - ジャンル:音楽
「クララ・シューマン 愛の協奏曲」(原題:Geliebte Clara)
脚本・監督:ヘルマ・サンダース=ブラームス
製作国 : ドイツ=フランス=ハンガリー合作
製作年 : 2008年
上映時間 : 109分
配給:アルバトロス・フィルム
2009.7.25〜Bunkamura ル・シネマ、2009.9.5〜テアトル梅田ほかで公開


昨年7月に公開された映画『クララ・シューマン 愛の協奏曲』を、大阪市北区茶屋町にあるテアトル梅田(梅田ロフト地下)でみた。

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クララ・シューマン(Clara Schumann,1819-1896)は19世紀のドイツの天才女流ピアニスト・作曲家で、ロベルト・シューマンの妻としても高名な女性だ。クララはとりわけドイツにおいて人気が高く、旧ドイツ・マルク紙幣にもその肖像が使われるほど広く国民に愛されているという。コンスタンツェ・モーツァルトコジマ・ワーグナーとならぷ作曲家の三大未亡人のひとりでもある。

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先ごろ公開されたこの映画は、ロベルト・シューマンがドレスデンからライン河畔の都市デュッセルドルフに赴任した40歳の1850年から1856年の死にいたるまでが、シューマン夫妻とブラームスをからめたエピソードを中心として、交響曲第3番「ライン」の音楽にのって描かれている。

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市のオーケストラと合唱団の指揮者のポストを得たシューマンは、新たな希望がその胸の内にあふれていた。時おり激しい頭痛や耳鳴りに悩まされていたシューマンにとって、風光のよいデュッセルドルフの生活は精神的に落ちつけるものと考えたからだ。

実際、ザクセン人とはどこか違った、ライン地方の明朗快活な人々との交わりは円熟期のシューマンの創作意欲を高め、美しい風景とケルンで観た大聖堂大司教の枢機卿昇進の祝典式にインスピーションを得て、さっそく作曲に取りかかったのが交響曲第3番「ライン」である。

この交響曲は、4曲あるシューマンの交響曲の中では最後の作品となったもので、出版の都合で第4番となった作品よりあとに書かれたものである。 「ライン」という標題は、 「ライン河畔の生活の一片」と作曲者が述べていることや、 「ラインの生活を彷彿とさせる」と評されたことから、いつしか人々のあいだでそう呼ばれるようになった。

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  ジュリーニ指揮フィルハーモニア管(EMI盤)


「ライニッシュ」というドイツ語は「ライン風」という意味で、ライン河畔に住む人々の快活な民族性や生活を反映したもので、「ライン河」そのものを指したものではない。したがって、映画では風光明媚なライン河の情景を謳った安っぽい名曲アルバム的な映像はまったくなく、もっぱら人間のみに焦点がしっかりと当てられている。

この映画を手がけたのはドイツの女流監督であるヘルマ・サンダース=ブラームス。西部ドイツ放送局でアナウンサーをやっていた人で、その名のごとく、この監督は作曲家のブラームス一族の血縁にあたるらしい。ブラームスは生涯独身をとおしたから直系ではなく、ブラームスの叔父から連なる末裔とのことである。すでに10年前から映画化の構想があり、当初はイザベル・ユペールがクララを演じる予定であったという。

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クララ・シューマンは、ロベルト・シューマンの死後、作曲家のヨハネス・ブラームスと恋愛関係にあったという俗説が存在し、その関係はロマンと謎につつまれている。しかし、ここではあっと驚くような脚本をひっさげて映画化を試みたものでなければ、三角関係によるどろどろとした愛憎劇を興味本位によって描いたというものでもない。

苦心の末に曲は完成するも、精神を患い破滅に向かって突き進む作曲家シューマン、師弟の間柄で、シューマンの良き理解者でもあるまじめでハンサムな好青年ブラームス、子育てをしながら夫の作曲の手助けをしたり、精神を病む夫を気遣いながら生活をささえて良妻賢母ぶりを発揮するクララ、といった人間のドラマが「ライン交響曲」を軸として実直に描かれてゆく。

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筆者が一番心にのこったのは、「ライン」の第1楽章が完成し、第2楽章の作曲にとりかかっている作曲家の部屋から美しいピアノの音楽が流れてきて、階下の炊事場で仕事をしていた料理人のおばさんが感動のあまり涙を流してしまうシーン。シューマンが「ライン河の朝」と名付けたこの第2楽章スケルツォの民謡風の主題は、作曲者がライン河畔の朝の情景に霊感を受けて作曲したとされる美しい楽想だ。

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ヴィオラ、チェロとファゴットがゆったりと奏でる名旋律は、滔々と流れるラインの大河をあらわすかのような感動的な音楽で、映画の中でもじつに上手く使われている。のっけからクララがシューマンのピアノ協奏曲を弾く格好のいい冒頭シーンで映画の幕が開くのと相まって、シューマンの音楽が好きな人にとってはたまらない映画だろう。

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「シューマンはとてもよく描けている。交響曲《ライン》を作曲している時期が描かれるのだが、その音楽の創作過程が実際はどうなのかは知らないが、なるほどと思わせる描き方だ。なんといっても、音楽の使い方がうまい。《ライン》がこんな名曲だったのか、と再認識した。」 『クラシックジャーナル』038号、中川右介氏による、アルファベータ刊、2009年)



美貌の誉れ高い天才ピアニスト、クララ・シューマンを演じるのは、マティルナ・ゲデックというドイツの演技派の女優。ここでは妖艶でミステリアスな雰囲気よりも、精神を病む夫と7人の子供をかかえて演奏活動をしながら生活を支えるという、現実的なたくましいおかみさんタイプのキャラになっているところがユニークだ。

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この人の演技はさすがに地に足がついた迫力を感じさせるが、いかんせんコンチェルトを弾くシーンはバタバタと腕弾きになっていて、繊細なイメージはまったくなく、腕っぷしの強そうな印象ばかりが目立っているのだ。ゲデックはこの演奏シーンを自分で弾くために、クランクインの4ヶ月前からピアノの猛練習をつんで、ある程度弾けるようになって撮影にのぞんだというから、まさに体当たりの演技といってよい。

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出来上がったばかりの交響曲の第1楽章を、オーケストラに練習をつけるシーンにおいては、耳鳴りで満足に指揮が出来ないシューマンに代わってクララが稽古の代役をかってでて、オーケストラを指揮してしまうシーンがおもしろい。

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“浪花のオスカル”こと西本智美(指揮者)も顔負けの、女性とは思えぬダイナミックな指揮ぶりが大きな見どころである。楽団員の反発をものともせず、棒をもたずに両腕を操って泳ぐような恰好でバタバタやるところなどは、あたかも素人の指揮者大会で、曲にあわせて踊る熱烈な自己陶酔型の音楽ファンを連想させずにはおかない。

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表面的には明るく、のびやかで快活な調子の「ライン」交響曲は、その後しばらくして、精神的な病が進行したシューマンがライン河に身を投じて自殺未遂事件を起こしたことによって、 「自殺の場所」という不吉なイメージが付き纏うことになる。1854年2月27日の出来事である。この時一命はとりとめたものの、この曲の持つ本質的な「暗い翳り」の部分が、よくいわれる不均衡な管弦楽法(管楽器と弦楽器を重ね過ぎている等)と関連して指摘されることになる。

「この曲を聴くたびに痛ましく思われるのは、この曲が書かれてからわずか3年後、シューマンの精神病が悪化し、創作活動に終止符が打たれたことである。異常な幻聴に悩まされるようになったシューマンは、1854年になると、ますます病状は重くなり、その年の2月下旬、冷たい氷雨のなかを、ライン河に身を投げた。その時は、たまたま通りかかった船に助けられたものの、ボン郊外のエンデニヒの精神病院に収容され、その2年半後、ついに息をひきとったのである。」 志鳥栄八郎著『クラシック不滅の名盤』より、講談社α文庫、1994年)


「何しろシューマンは、とくに〈第3〉と〈第4〉では管と弦をやたらに重ねており、これはデュッセルドルフのオーケストラ(〈ライン〉はまさにそこで初演された)が弦が弱かったから、という説も昔からあるのだが、根本はシューマン自身の音色にかんする灰色のイメージである。それは誤解されているように、シューマンがオーケストレーションが下手だった、というようなことではなく、彼の病的な気質からきている。そもそもオーケストレーションには、学生の習作は別として専門の作曲家の場合に上手も下手もあるものではなく、弦のグループと管のグループが原色的に対比するのが上手なオーケストレーションだなどと考えるのは素人の判断である。」 柴田南雄著『レコードつれづれぐさ』より、1976年、音楽之友社)



作曲家シューマンを演じるのはパスカル・グレゴリーというフランスの名優。この人はさすがに心憎いばかりの巧い演技を見せてくれる。ロベルト・シューマンの“ぽっちゃり”とした肖像画のイメージとはだいぶかけ離れているが、頭痛と幻聴に悩まされ、鎮痛剤のアヘンチンキを服用し続けて次第に病んでいくさまがなまなましく演じられ、なにやらゾッとするような神経を張りつめた狂気性というものが見ていてひりひりと伝わってくる。

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1854年の2月の初め、シューマンは、世にも不思議な聴覚の異常を体験した。それは、最初のうちしばらく、すべての音が天使の歌声のように快く、美しく聴こえるが、その期間を過ぎると、今度は逆に、すべての音が悪魔の強迫のように恐しく、醜い音に変わるというもので、この異常な音の責め苦は昼も夜も間断なく続き、シューマンの繊細な神経は全く疲れ切ってしまった。そしてとうとう、ある日のこと、彼はクララに、「わたしはもう、自分の心をコントロールできなくなってしまったので、精神病院へ行く」と言い出して、彼女を驚かせた。 志鳥栄八郎著『大作曲家をめぐる女性たち』より、音楽之友社、1985年)


最後はボンからやって来たという、ちょっとヤバそうな脳外科医リヒャルツの魔の手が忍び寄り、ついには手術台でメスの餌食となってしまう。奇妙な手術がほどこされ、血の滲んだ包帯を頭に巻いて、廃人同様になってしまったシューマンの無惨な姿はあまりにもショッキングだ。しかし頭を剃った姿は、どことなくエッシェンバッハ(指揮者)に似ているではないか。

シューマンの精神病については、現代医学の観点から専門家によって精神疾患の障害の一つである双極性障害(躁うつ病)と診断されている。じつは、シューマンが16歳のときに姉のエミリーが精神に異常を来たして自殺し、父フリードリヒも神経病のためこの世を去っていることや、さらにシューマンの三男フェルディナントも精神障害が原因で自殺していることから、シューマンの精神障害は遺伝的なものともいわれている。

「無名のへっぽこ作曲家なんぞに愛娘はやれぬわ」というクララの頑固な父親の反対を押し切ってふたりは結婚したいきさつがあったことから、厳格なピアノ教師の父親から高い音楽教育を受けたクララの過剰な期待が重荷となって、シューマンの精神錯乱を早めてしまったという説まである。シューマンが世を去ったのはボンのエンデ二ッヒ精神病院に収容された2年後の1856年7月29日。46歳のみじかすぎる生涯を閉じたのである。



若きブラームスを演ずるのは、これもフランス人俳優のマリック・ジディ。ここでブラームス監督が描くブラームスは、そのずばぬけた才能を見抜いたシューマンによって世間に紹介された師弟の間柄であり、シューマンの良き理解者でもあり、音楽家クララに敬意をはらうクララより14歳年下の好青年である。

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7人の子供(さらにもう1人できる)をかかえ、使用人に給料すら払えなくなって、生活が困窮したクララに援助の手をそっとさしのべたりする。映画の中では、とってつけたようにハンガリー舞曲第5番をピアノで弾くシーンがいささか興ざめで、シューマン夫妻とくらべて存在感はうすく、のちの大作曲家のイメージからはちょっと遠い。

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クララはシューマンの死後、ホテルの一室でブラームスとベッドをともにするが結局これを受け入れず、ふたりへの思いを胸に独りで生きつづけることを決意する。ここで謎につつまれたロマンスの結論として、ブラームス監督は2人の関係には深くはふみ込まず、どっちつかずの煮え切らないかたちで幕を引いてしまったところが筆者には少々もの足りなく、議論の分かれるところであろうか。

「彼らの置かれた状況は単純なものではありませんでした。クララはもちろんヨハネスにとても惹かれていましたし、ヨハネスも彼女を愛していましたが。クララは独りで生きることを決心したのです。彼女は再び誰かの妻になろうとは考えませんでした。」 (ヘルマ・サンダース=ブラームス監督)


「シューマンの葬式がすんで間もなく、ブラームスは、クララを元気づけるために、クララと彼女の息子2人を誘い、スイスに旅行した。この旅行から後、ブラームスのクララに対する手紙の文面が次第に抑制された静かなものに変わっていったことから考えてみると、旅行中に2人の間で将来のことが真剣に話し合われ、2人の愛情にピリオドを打ち、親しい友人として交際を続けるという合意に達したことは確かなようである。もし、ブラームスがこの時、ワーグナー流の押しの強さを発揮してクララに求婚していたら、おそらく、クララはそれを拒絶したであろうと見る人が多い。クララにとって、シューマンのしめるウェイトは、それほどに大きかったわけである。」 志鳥栄八郎著『大作曲家をめぐる女性たち』より、音楽之友社、1985年)



ラストシーンでクララ・シューマンがコンサートで弾くのは、ブラームスがシューマンの死の翌年に曲した(24歳のときの作品)ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15。クララがこの作品を演奏したという記録はないが、なるほど、ブラームス監督らしいフィクションによって力強いフィナーレでむすんでいる。

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ブラームスが43歳になって作曲した交響曲第1番の第4楽章に現れる有名なアルペン・ホルンの動機は、クララに宛てた誕生日を祝う手紙の中でしるされ、クララ・シューマンへの愛を表しているとされる。 「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」。ふたりのあやしい関係が「心から愛する友人」として、生涯距離をおいた親交であったのかどうかは音楽史上の永遠の謎であり、われわれは想像をはたらかせるしかない。

「こうして、ブラームスの精神的な自立が始まるが、クララに対する満たされぬ愛の後遺症は、以後の彼の人生にずっと尾を引いたようである。はたして、2人の間が完全にプラトニックなものだったかどうか、疑問が全くないわけではないが、若い時にクララのような年上の優れた女性と出会い、激しく燃える恋いを経験したことが、ブラームスのその後の人生と音楽を決定的にしたといえるだろう。ブラームスの音楽には、ドイツ的な重厚さと田園的詩情と、一抹の哀愁とやさしい憧れのような気持ちが入り混っている。この憧れこそ、深く愛しながら生涯結ばれることのなかったクララへの憧れの心情ではなかったか−とわたしは思うのである。」 志鳥栄八郎著『大作曲家をめぐる女性たち』より、音楽之友社、1985年)


シューマンの死から40年経った1897年4月3日、ブラームスは静かに息を引き取った。前年の5月20日、生涯変わることのない愛を捧げたクララ・シューマンが亡くなると、ブラームスは生きる気力を失い、クララの後を追うかのようにして世を去ったのである。(2009年9月8日 テアトル梅田)



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テーマ:クラシック - ジャンル:音楽
サー・ゲオルク・ショルティ指揮
イスラエルフィルハーモニー管弦楽団
1958年4月(ステレオ録音)
CDROM1.gifDECCA UCCD-3784(2007年2月発売)

Tchaikovsky Serenade for Strings in c major, Op.48 [27:14]
 1.Andante non troppo
 2.Moderato. Tempo di valse
 3.Larghettto elegiaco
 4.Finale. Andante non troppo - Allegro con spirito

Sir Georg Solti,conductor
Israel Philharmonic Orchestra
Recording: 1958.4 Rishon leZion, Tel Aviv (Stereo)
Producer: John Culshaw
Engineer: Gordon Parry, James Brown


演奏★★★★ 録音★★★★★     [評価が2点、が1点の10点満点]


お気に入りのCDや海外のライブ録音を気ままに紹介する Musikfreund(ムジークフロイント)。本日は、ゲオルク・ショルティがイスラエルフィルを指揮したチャイコフスキーの弦楽セレナーデを聴く。

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このディスクはショルティが45歳のときに、ジョン・カルショウと組んでステレオ初期のイギリス・デッカに録音されたものである。これは誰が見ても奇抜な取り合わせとしか言いようがなく、ハンガリーの指揮者がイスラエルのオーケストラを使ってチャイコフスキーを録音するいうのは、パリ音楽院管弦楽団との「悪夢の演奏」が再現するのではないかという音楽愛好家の期待を抱かせるショルティの「怪演シリーズ」第2弾といってよい。

1957年5月、イスラエルフィルを手に入れることをもくろんだイギリス・デッカは最適な録音会場を求めて現地に人を派遣した。当時、フレデリック・マン公会堂はまだ建てられていなかったため、テル・アヴィヴから数マイル離れたリション・ル・ジオンという村の映画館を見つけて録音会場に選んだ。

イスラエル中部にある村にとって、世界的なレコード会社が訪問することは一大事件であった。デッカのスタッフが到着すると、村議会のメンバーが勢揃いで出迎え、村長はオーケストラとデッカを大歓迎した。村の歴史をまじえた村長の長ったらしいスピーチがはじまると、デッカのスタッフはやきもきした。ショルティが滞在期間を延長できないために、予定時間内で録音を終える必要に迫られていたのだ。ショルティのリハーサルはほんとど1時間たってからようやく始めることができた。

第1回目のセッションは、ロッシーニのパレエ音楽「風変わりな店」 (レスピーギ編曲)、デュカスの「魔法使いの弟子」 (1957年5月)、続いてチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 (1958年4月)、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」、シューベルトの交響曲第5番(同年5月)という弦楽器を主体にした曲目が中心だ。この間にラファエル・クーベリックとも録音セッションが組まれている。

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この当時のイスラエルフィルは、凄まじい暑さの中を蒸し風呂のようなバスで移動するという国内の演奏旅行を繰り返していた。弦楽器奏者と木管楽器奏者は国外では仕事が容易に見つからないためにこれを我慢していたが、上手いトランペット奏者とトロンボーン奏者には欧米にいくらでも職があった。

その結果、イスラエルに残った金管楽器奏者は海外では通用しない水準にあったとされ、クーベリックがこのオーケストラと録音したドヴォルザークの交響曲第8番は金管が不出来のために発売できなかったほどだ。ショルティはこれまでイスラエルフィルを指揮したことがなかったために念入りにハーサルを行った。

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「当時のイスラエル・フィルは、バランスのよいオーケストラではなかった。弦楽は素晴らしかった。少なくとも、壮麗さと瑞々しさを必要とする音楽ならどんな場合でも、そうだった。木管も満足できるものだった。だが、金管は水準以下だった。」 ジョン・カルショー著 『レコードはまっすぐに』より、山崎浩太郎訳、学習研究社、2005年)


ショルティが「弦楽セレナード」を録音するというのはかなり意表を突いた選曲で、後にも先にもショルティがこの曲を録音したのはこの時限りであるので、これは貴重な録音といえる。この当時、フランクフルト歌劇場の音楽監督の職にあったショルティだが、レコード会社のカタログの穴埋め的なものであっても「仕事をくれるのなら何でもやりますよ!」といった心境でどん欲に仕事をこなしていたに違いない。

「ショルティこそは、カルショウに見い出され、カルショウによってみがきをかけられ、カルショウのつくるレコードで世間にみとめられ、そしてついにはステージでの今日の名声をきずきあげたのである。彼はまさにレコードの生んだ指揮者のうちの最大のスターといえるだろう。」 “デーヤン”こと出谷啓著 『レコードの上手な買い方』ON BOOKS、音楽之友社、1977年)


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楽譜を忠実に音化することに熟達していたショルティは、デッカの録音ポリシーとも相性が良かったのだろう。EMIからの誘いにものらず、デッカ一筋であったショルティは今回も、もりもりと筋肉を付けた力感みなぎる「弦楽セレナード」を聴かせてくれるに相違ない。弦楽器奏者の腕前には定評のあるイスラエルフィルというのもこれは面白い組み合わせだ。

「デッカの重役ローゼンガルテンは自身がユダヤ人であるためか、イスラエル・フィルとの録音契約を結んだ。1957年5月、カルショウたちスタッフとショルティがテル・アヴィヴ近郊のリショ・ル・ジオン村にある映画館に乗り込んで録音を行った。しかしショルティが飛行機の関係で到着が遅れた上に村の歓迎式典もあって、時間がギリギリになる中で録音されたという。カルショウによれば金管に弱点のある、しかし弦楽器は素晴らしいオーケストラだった。そのせいか、翌年の再訪で録音されたチャイコフスキーの方が強靭で印象が強い。」 『レコード芸術』特集〈ゲオルク・ショルティ再考〜没後10周年記念〉より山崎浩太郎氏による、通巻第687号より、音楽之友社、2007年)


「以外にもショルティ唯一の録音。しかもイスラエル・フィルとの共演という点もセールス・ポイント。《弦楽セレナード》ではオーケストラの中枢とも言うべき弦の機動力と質感を十全に堪能できる。ショルティの熱っぽい語り口も絶好調で、第2楽章のワルツは聴きもの。《風変わりな店》の舞曲のリズム感や曲想のつけ方は野趣たっぷり。〈タランテラ〉などは面目躍如だろう。《魔法使いの弟子》は全体にテンポが速めなせいもあってか、やや表現が物足りない印象がある。勢いがある演奏ではあるのだが・・・・・。」 齋藤弘美氏による月評、『レコード芸術』通巻第680号より、音楽之友社、2007年)


「シャープな輪郭で、メリハリをきかせて描き出され、性格的にドライ。」 吉井亜彦著 『名曲鑑定百科・管弦楽曲編』増補版、春秋社、2007年)




第1楽章「ソナチネ形式の小曲」、アンダンテ・ノン・トロッポ8分の6拍子

序奏のすさまじい力感に驚かれさてしまう。ものすごいアクセントをつけて、もりもりと弾ききるイスラエルフィルの弦楽陣はショルティのきっぱりとした棒さばきに俊敏に反応する。スフォルツァンドを躊躇なく叩き込み、低音弦が豪快にアクセントを入れて駆け上がってくるところには腰を抜かしてしまう。

克明に弾かせるキツい旋律線、筋骨隆々たるフレージング、白黒をはっきりつけるようなディナーミクがくっきりと鮮やかで、これらが見事に決まっている。まさに「強烈な白色光線で照らし出されたスコアの音化」(柴田南雄氏)にほかならない。これは指揮の勉強には最適のデイスクで、目をむいたような音が鮮やかに鳴っている。

ゆるやかで優雅な波のモチーフの第1主題は、弾みをつけた男性的な逞しさで雄々しく歌われる。カノン風に展開する旋律の背後にある陰影や、中間部の浪漫的な気分の醸し出す抒情性といったものとはきっぱりと訣別し、バケツに水を汲むような物腰でひたすら音符に忠実に正面からぶつかっていくショルティの職人気質が大きくものをいう。抒情派指揮者のバルビローリとはおよそ対照的といってよい。

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「ガリガリ」と松ヤニのきしるようなチェロの音、響鳴板がビンビンと震えるようなヴィオラの音はあまりにも生々しく、内声部の伴奏音型にまで力点を置き、これを剥き出しにしなければ気が済まぬといった辣腕指揮者の徹底ぶりが、細部を強調して録るデッカの録音ポリシーと見事にマッチしているところがおもしろい。2ndヴァイオリンとヴィオラを凄まじいばかりに追い込んで、ぐいぐいと第2主題(91小節)へ駆け込むところは圧巻である。

第2主題のテンポはきわめて早い。16分音符の細やかなスタッカート主題「こまねずみ」のようにせわしく弾かせ、あくまで直球勝負にこだわるショルティの冷徹ぶりが際立っている。曲に秘めたそこはかとないニュアンスなんぞ糞食らえ、ひたすら音のつぶ立ちを1つ1つ克明に揃えることにのみ専心する。

「彼には極端への好みというか、微妙な明暗のニュアンスで仄めかすべきものも白日の下に引きずりだして、白か黒かに強引に二分しなくては気がすまないといったところがあり、それがたとえば緩除楽章を扱う際に、音楽を不安定な、せかせかしたものに変質する弊となる。」 吉田秀和著『世界の指揮者』、筑摩書房、2008年)


展開部も聴きものだ。ヴァイオリンとヴィオラ・チェロが交互に第1主題の断片を歌うところは贅肉を削ぎ落とし、旋律をキリリと引き締めて美しく歌われているが、あくまでリズムを崩さず、すさまじいテンポで煽るように追い込んでいくところは抒情味のカラケもない。弦楽奏者たちは松ヤニが飛び散らんばかりにガリガリと弾き飛ばし、音階を一気に駆け上がって「ぴしゃり」と締め括る。

結びはさらに力が籠もる。低音弦をなみなみと盛りつけ、ヴィオラのスフォルツァンドを露骨に強調して「ビシっ!」と決めるフィニッシュは大見得をきるというよりは、まるで体育会のようで、あたかも体を鍛えて筋肉をつけたチャイコフスキーが、体操競技に出場してウルトラCを決めているような趣がある。

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第2楽章「テンポ・ディ・ヴァルス」、モデラート4分の3拍子

1stヴァイオリンの奏する艶麗なワルツはチャイコフスキーの代表的な名旋律で、これを力を抜いて美しく歌われるところはさすがにイスラエルフィルがその持ち味を発揮する。ショルティはアクセントをつけて克明に歌わせようとするが、ここはオーケストラがごく自然に反応して、艶美とよぶにふさわしい弦楽の味わいを心ゆくまで堪能させてくれる。

「イスラエル・フィルの伝統のひとつに、世界最強といわれる弦楽セクションの優れていることがあげられる。それは創設当初弦セクションに、ベルリンをはじめ、ライプツィヒ、ドレスデンなどドイツ各地のオーケストラのコンサート・マスターが多かったことに始まる。そして、イスラエル・フィルの特徴は、メンバーの誰もがソリストとして十分に通用する実力の持ち主だということである。」 「イスラエル・フィルの魅力」より、2003年来日公演プログラム)


辛口のスタッカートで音階を駆け上がり、アクセントを効かせて切分音を通り抜けると、第2主題のメロディーを味わう間もあたえぬ早ワザで料理してしまうところには驚かされてしまう。53小節で第1主題をくっきりと歌うチェロと2ndヴァイオリンの調べは心地よい。これに上下を駆け回る1stヴァイオリンのきめ細かなオブリガートは心に染みる美しさで、これはもうイスラエルフィルが弦の魅力を存分に発揮している。第3主題は露骨に対声部を強調し過ぎて音楽がギクシャクしてしまっている。

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オクターブあがる第1主題の再現部(115小節)はヴィオラの内声部をことさら強調して聴かせようとしているのが印象的で、どっぷりと重みのある節回しによって歌われて次第にショルティらしさが出てくるところがおもしろい。弓に圧力をかけ、力瘤のはいった切迫感のある切分音はショルティでしか聴けぬもので、第2主題への切り返しの反応の速さや優雅なワルツをもりもりと力強く歌い上げるところはショルティの力仕事で、面目躍如たるところだ。



第3楽章「エレジー」、ラルゲット・エレジアコ4分の3拍子

ここではショルティらしからぬウェットな情感によって纏綿と哀歌が歌われている。しかしよく聴くと“ショルティらしさ”がそこかしこにあらわてくる。序奏は要所でテヌートを効かせ、強弱をくっきりつけてゆく。15小節頭のアクセントがいささか耳障りで、低音弦を大きく膨らませてポコ・ピウ・アニマートへ突入する。

エレジーの主題は美しい。ヴィブラートをたっぷりかけた弦楽器奏者によって、極美のカンタービレが歌われる。1音1音にバネを効かせたピッツィカートの伴奏が感興を大きく高めている。第1変奏のヴィオラとチェロがこってりと歌うメロディーに、1stヴァイオリンの伴奏音型が美しく絡みつくところは涙ものだ。チェロと1stヴァイオリンがカノン風に展開する第2変奏は両者をくっきりとかけ合わせ、音楽に活力が漲っている。

「イスラエル・フィルのオーディションが厳しいことは有名である。入団するためには卓越したソリストの技量が要求されるので、イスラエル・フィルはソリストのオーケストラと言われてきた。例えばヴァイオリン・セクションでは、ひとりひとりがうたうヴァイオリニストなのである。うたいすぎてアインザッツが合わないときでも、それはまた個性で刺激的な響きとなって聴く人を魅了する。」  「イスラエル・フィルの魅力」より、2003年来日公演プログラム)


1stヴァイオリンとチェロが律動的に展開する第3変奏は1音1音を克明に歌わせ、66小節のヴィオラの下降音型にテヌートを際立たせてアグレッシヴに盛り上げている。クライマックスともいえる第4変奏の、主役のヴィオラの分厚いに調べに1stヴァイオリンが艶美に絡みつくところは最高の聴きどころだ。研ぎ澄まされた1音1音が聴く者の胸を打ち、感性を大いに刺激する。

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コデッタの音楽は弱音器を付けても、なお、健康的に響く弦楽器の鳴りの良さには唖然とするが、すさまじいテヌートを盛りつけたり(121小節)、突如流れをぶつ切りにしたりという直情径行型の音楽が興をそいでしまう。終止部手前のヴィオラの刻みを「ゴリゴリ」と克明に鳴らすところは、1音たりとも「録り逃さぬぞ」というエンジニアのお株を奪うショルティの意気込みすら伝わってきて、感傷的な気分は何処へやら去ってしまう。



第4楽章「ロシア的主題による終曲」、アンダンテ4分の2拍子

「豪腕ショルティ」が本領を発揮するのは終曲の音楽だ。舞曲の断片がとぎれとぎれに演奏される序奏部の音楽は、チェロが加わると音楽に量感が増してくる。アレグロ・コン・スピリトの舞曲はテンポがきわめて早い。きついアクセントを打ち込んで、エネルギッシュに爆進する。

たっぷりと奏でるコン・アニマのチェロの副主題(84小節)は恰幅がよく、朗々と歌われるが、バネを効かせた苛烈なリズム打ちが旋律の感興を大きく凌いでいる。素早い刻み打ちでタテの線をビシビシと揃え、拍節感を強調して畳み込むように突き進む音楽はこの上なくスリリングであり、テンポの設定がピタリと決まってじつに気持ちがよい。

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変奏部(168小節)はガリガリとすごい音をたてて刻み込むチェロとコントラバスの独壇場だ。まるで楽器の中に顔を突っ込んで聴いているかのような生々しいデッカの音場は現実にはありえぬもので、聴き手の快感を刺激するがあまりにもあざとい。

弦楽がすさまじいテンポで弾きとばす音楽は、とてつもない迫力を生み、一気にクライマックスのトレモロ(272小節)へと突入するところは圧巻だ! ショルティの直角に曲げた「恐怖の肘打ち」に俊敏に反応するイスラエルフィルの弦楽陣の辣腕ぶりには開いた口がふさがらない。弦は「ギシギシ」ときしむような音をたてて突き進み、ダイナミックな疾走感がゾクゾクするような聴き手の興奮をかき立てている。

「彼の採用したテンポはとにかく速めだったが、それは肘を大型の植木鋏みたいに奇妙に角張った形で動かすばかりでなく、マラソンでもしているみたいに上半身でバランスをとりながら、音楽を進めてゆくことと関係があったのではないか。」 吉田秀和著 『世界の指揮者』より、筑摩書房、2008年)


再現部・副主題のチェロの歌(296小節)は拍節感があまりにもどぎつく、音楽はガチガチだ。それでもショルティはわき目もふらず、ぐいぐいとオーケストラをドライヴする。シャキシャキとせわしく弾きとばす弦楽器の各パートは目をむいたように切り立ち、あたかも精巧な歯車がかみ合わされるかのように音符の目がメカニックに紡がれてゆく。

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コーダの音楽も即物的に楽譜を音化してゆく。克明に第1楽章の主題を歌い、「ビシッ!」とフォルテを鮮やかに打ち込む音楽は歯切れがよく、聴き手にスポーツ的な快感をあたえている。圧力をかけた3連音符から一気にテンポ・プリモの舞曲に回帰するところも余情をきっぱりと廃し、発想標語(stringendo)に即座に反応して急迫的に追い込んでゆく。スプリング台からジャンプするように弾みをつけてから、バッサリと切って捨てるようなフィニッシュもまるでジェットコースターに乗っているようで鮮烈この上ない。

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これは「豪腕ショルティ」が変化球なしの剛速球1本で押しまくった知る人ぞ知る「弦楽セレナーデ」で、感傷をきっぱりと廃し、各パートを明確に音化してゆくことに特化した玄人受けする怪演であり、イスラエルフィルの優秀な弦楽のワザを心ゆくまで堪能させてくれるキワモノの1枚である。


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◆ショルティの怪演を聴く
チャイコフスキー交響曲第5番 パリ音楽院管(DECCA 1956年)


テーマ:クラシック - ジャンル:音楽
モーツァルト/ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K364
スザーネ・ラウテンバッハー(ヴァイオリン)、ウルリヒ・コッホ(ヴィオラ)
イシュトヴァン・ケルテス揮
バンベルク交響楽団
1960年代初期のステレオ録音
CDROM1.gifDENON COCQ84441(2008年4月発売)

Mozart :Sinfonia Concertante für Violin,Viola und Orchester Es-Dur K.364
1.Allegro maestose (Kadenz;W.A.Mozart) [13:07]
2.Andante (Kadenz;W.A.Mozart) [11:33]
3.Prest [6:25]         /Total [31:05]
Susanne Lautenbacher, violin Ulrich Koch, viola
Istvan Kertész, dirigent
Bamberger Symphoniker
Licensed by Ariola-Eurodisc GbmH, Munich


演奏★★★★★ 録音★★★★     [評価が2点、が1点の10点満点]


お気に入りのCDや海外のライブ録音を気ままに紹介する Musikfreund(ムジークフロイント)。本日は、モーツァルトのヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K364をラウテンバッハーのヴァイオリン、ケルテス指揮、バンベルク交響楽団の演奏で聴く。

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このディスクは、コロムビアのオイロディスク・ヴィンテージコレクション(第3回)の1枚として発売されたもので、オリジナル・マスターからの復刻によって40年ぶりの日の目を見た往年の名盤である。

LPでは1964年2月(OS3438)に出ていたもので、これが初CD化というから筆者もその存在を知らなかった。このオイロディスクの一連のシリーズは、ドイツや東欧を中心とした、今では忘れ去られた往年の演奏家の名演が発掘されたもので、地味ながらじつに味わい深い演奏が多い。

「K364」のソリストをつとめるのは、スザーネ・ラウテンバッハー(1932〜)。アウグスブルク出身、1955年にミュンヘン国際放送コンクールで入賞、ヘンリク・シェリングの指導を受け、その後は独奏者、ペル・アルテ三重奏団のメンバーとしても活躍。すでに引退した過去の人であるが、一時代前にバロック音楽でも名を馳せた名ヴァイオリニストである。1964年にはケルン合奏団の第2ヴァイオリンの首席奏者として来日したこともあるという。

  CD01036.jpg  Susanne Lautenbacher

「ラウテンバッハーはピリオド系スタイル以前の、いわゆる“正統派”とされてきた流れを代表する演奏家といえよう。ラウテンバッハーの特質である師シェリング譲りの高潔さ、整った造形、折り目正しいフレージング、明確に際立たせた1つ1つの音とその連なり。楷書体ともいえる端然たる直裁な弾きぶりであり、細部まできっちりと弾きこんだ演奏となっている。」 寺西基之氏による「ライナーノート」より、コロムビア・ミュージック、2008年)


「ただ、ラウテンバッハーのヴァイオリンに関しては、音がやや硬質で甘い魅力に乏しい点を物足りなく思う向きもあるだろうと推察する。そのあたりが、彼女が比較的地味な存在にとどまった所以ではなかろうか。」 大木正純氏による月評より、『レコード芸術』通巻第699号より、音楽之友社、2008年)



ここで聴くラウテンバッハーのモーツァルトは端正の一語に尽きる。ドイツ流の拍節に従った安定感のあるフレージングによって、きわめて堅実な音楽が奏でられているのが特徴だ。旋律線はしっかりと根をはったように太く、果肉のみっちり詰まった濃密で、しかも温かみのある音色が大きな魅力といってよい。

対するヴィオラのウルリヒ・コッホ(1921〜)は1967年まで南西ドイツ放送響のソロ奏者をつとめていた人で、ケルン合奏団にもしばしば出演してラウテンバッハーとも共演していたこともあり、じつに息の合ったところを見せている。

「当ディスク所収の演奏では、ラウテンバッハーの端正で折り目正しいフレージングが印象的である。いわゆるジュリアード系のヴィプラートや美音とは無縁であるが、のびやかで手堅いアプローチが、ケルテスのフレッシュなセンスとマッチしていると感じるのは、筆者だけではないだろう。ラウテンバッハーとしばしばデュオ、またはトリオをくんでしたコッホのヴィオラが、渋いながらも、しみじみとした色合いを備えた楽器の特性を打ち出しちつつ、ヴァイオリンやオーケストラと掛け合っていくあたりも魅力満点である。」 満津岡信育氏による「ライナーノート」より、コロムビア・ミュージック、2008年3月)


「木管は背景に退きつつも、弦楽器における鋭く抉るようなフォルテやアクセント、レガートをそれほど重視しないアーティキュレーシンによって、起伏に富んだフレーズを作り出しているのが、本盤でのケルテスの特徴である。とくに、以外に細かく強弱指示が記入されたモーツァルトの作品では、上記の特徴とともに、最大で6声部に分かれる弦楽器群の音量、音色の差異が巧みに浮かび上がっており、録音の平板さからすれば驚異的ですらあろう。それに比べると、ラウテンバッハーのソロは個々の音を丁寧に、柔らかなヴィブラートを施しながら置いていく風情で、コッホのほうはもう少し一筋縄でいかない表現を志向しているとはいえ、独奏とオケの芸風の違いが鮮明で興味深い。」 安田和信氏による月評、『レコード芸術』通巻第693号より、音楽之友社、2008年)




第1楽章 アレグロ・マエストーソ、変ホ長調、4分の4拍子

ローカル色をたたえた中部ドイツ特有のオーケストラの響きが印象的で、ほこほこと野太く響くホルンはいかにも田舎の楽団といった趣がある。定期的にバンベルク響を客演指揮していたケルテスは決して力まず、落ち着きのある棒さばきによって実直かつ丁寧にオーケストラを鳴らし、それが耳あたりよく響いている。

ソロを弾くラウテンバッハーの演奏はじつに端然としている。高度なテクニックや誇張したような美音を聴かせるヴィルトゥオーゾ・タイプの大家とは一線を画し、1音1音、譜面をなぞるように実直につむいでゆくのだ。16分音符の早いパッセージも弾き飛ばすことなく、丹念にしっかりと音を拾っている印象がつよい。弦楽器を学ぶものにとっては、これはよいお手本になる演奏にちがいない。

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これに対峙するウルリッヒ・コッホのヴィオラがしぶい。くすみ掛かった味わいのある音色が心地よく、ラウテンバッハーの実直なヴァイオリンとものの見事に調和している。交互にかけあう場面などは、線質と音色が似通っているためか、あたかも1本の楽器で弾いているような錯覚にとらわれてしまう。モーツァルトはヴィオラを半音低いニ長調によって記譜していることから、奏者は半音高く調弦して演奏しなければならない。

「かくして輝きを増したヴィオラは、ヴァイオリンと対等に渡り合い、またデュエットではいっそう協調する。コンサート・レパートリーに乏しいヴィオラ奏者に愛されるゆえんである。」 「モーツァルト名盤大全」協奏曲・室内楽編より芳岡正樹氏による、〜『レコード芸術』通巻第663号、音楽之友社、2005年)


大きな見せ場は感興が高まる展開部の総奏(158小節)だ。ケルテスの落ち着いた棒さばきによって、ローカルな楽団を巧みにドライブする。やわらかなシンコペーション、中低音の分厚くかますトリルが見事に決まって、実り豊かな音楽に確かな手応えを感じさせてくれるのだ。

144小節から場面はモーツァルト特有の翳りを帯びた憂いに充ちてくる。ここでコッホのヴィオラが音楽を巧みにリードする。温かみのあるヴィオラに、艶を増した柔らかなヴァイオリンが溶け合うように語り合う場面が最大の聴きどころで、民芸品のような手づくりの音色の美しさに聴き手の耳は恍惚とさせられてしまう。

ひなびたオーボエ、ふっくらしたホルンの明るい旋律が絡んで再現部の総奏へと突入するところは、若きケルテスの棒の先からモーツァルトの音楽が滔々と流れ出すかのようである。

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「管弦楽も伴奏にとどまらず、ヴィオラを2部に分けてハーモニーを充実させ、オーボエもホルンも縦横に活躍する。第1楽章でソロのヴァイオリンとヴィオラが歌い交わすなか、オーケストラが楽器を交替しながら下降旋律を奏でて“透かし彫り”のように絡んでゆく場面は、まさにこの曲を聴く醍醐味だ。」  「モーツァルト名盤大全」協奏曲・室内楽編より芳岡正樹氏による、同上)



この楽章の最後に独奏楽器のご馳走が用意されている。 「カデンツァ」はきわめて速い! ラウテンバッハーは、ここでアグレッシヴに弾き飛ばし、生気溌剌たる演奏ぶりと腕の確かさを見せつつも、ヴィオラとともに16分音符を一分のぶれなく、流麗闊達に、協調しながら、変化と調和を見事に実践している。3連音とスタッカート楽句を緻密につむいでゆく細やかさも特筆もので、強靭かつ瑞々しいばかりの弓さばきが深い感動をよぶ。

コーダの総奏も感動的だ。儚げにかなでるオーケストラの弦の微妙な色合い、木管のくすんだ味わい、中欧ならではの厚味のある豊かなサウンドが、決して美麗なものではないが、どこか翳りを帯びたモーツァルトの名曲にささやかな彩りを添えている。

「ケルテスは、当ディスクでも、ぬくもりと手応えを兼ね備えたバンベルク響のサウンドを存分に活かしながら、推進力に富んだアプローチを展開。第1楽章の第2主題をオーケストラが提示する際に顕著なように、バンベルク響のアンサンブルは、決して一流とはいえないが、低弦の刻みやヴィオラの伴奏音型をはじめ、随所で明滅する管楽器が実にいい味わいを醸し出している。」 満津岡信育氏による「ライナーノート」より、コロムビア・ミュージック、2008年3月)




第2楽章 アンダンテ、ハ短調、4分の3拍子

この曲の白眉は何といってもアンダンテの音楽だ。すすり泣くような嘆き節の名旋律は、モーツァルトの作品の中でもひときわ痛切な悲哀にみちたものといってよい。永遠の恋人アロイジア・ウェーバーへの求愛を拒絶され、ピアノに向かって泣きながら歌った。失意の底に打ちひしがれた23歳の作曲者の手による悲痛な旋律は、 「一抹の哀愁を帯びた抒情的な美しさはたとえようもない。」(志鳥栄八郎氏)

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   心変わりしたアロイジアと青年モーツァルト

装飾音をともなったラウテンバッハーのヴァイオリンのソロが、もの悲しい名旋律を艶をのせて纏綿と歌いぬく。リリカルに傾斜することなく、旋律線は実直かつ丁寧に歌われてゆくところはラウテンバッハーたるゆえんである。

これを歌い返すコッホのヴィオラはまさしく燻し銀。地味な音色ながらも、音をねかせて、太い音でしっかりとつむいでゆくところは是非耳をそば立たせたい。オーケストラの合奏の中にあっては、裸で聴えることの少ない中音域のヴィオラのくすんだ音色の醍醐味を心ゆくまで堪能させてくれるのだ。

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ケルテスのさばく総奏部(35小節)は、たおやかなオーケストラの調べが感動的だ。58小節「秋の憂愁」ともいうべき、うら寂しい晩秋の情景が目の前に迫ってきて胸がいっぱいになってしまう。独奏が下降してきたあとに、溜め息のようにそっと入れる伴奏の絶妙な味付けとニュアンスの豊かさ(91小節)、3連音の独奏のあとにオーケストラが雪崩れ込んでくる慟哭の表情(99小節)などは筆紙に尽くし難い。

変奏部(62小節)は2人の独奏者の独壇場だ。しっとりと奏でる濡れたようなヴァイオリンと、暗い翳りが明滅するヴィオラが、緻密な音によってじつに端正に演奏されてゆく。クライマックスはホルンのシグナルのあとに、112小節で32分音符のパセッージを歌い合い、長いトリルを経てカデンツァへ突入するところだ。悲痛さが止めようもなく胸に迫ってきて、悲しみがその頂点をむかえるのだ。

カデンツァは二者が語りあうように、フーガ風に歌い返すところは、太い和音によって一音一音がしっかりと弾きぬかれている。感情の起伏は明確だが、こまやかな情感もさりげなく反映されているところが心憎い。とくに作曲者の悲しみをあらわすかのようなヴィオラの切なるスタッカートの楽句は、まさに深まりゆく秋の黄昏といってよい。

「第2楽章ハ短調のすすり泣くようにセンティメンタルな音楽は、モーツァルトとしても異例。第1楽章とともに自身で付けたカデンツァの深淵は、《ジュノーム》のそれとともに印象的だ。」 「モーツァルト名盤大全」協奏曲・室内楽編より芳岡正樹氏による、同上)


エンディングの総奏は角ばった所がいささかもなく、内声部の充実感も比類が無い。しっとりとした柔らかさを保ちつつ、スフォルツァンドの翳の濃い蒼古な響きと神秘的な色合いが巧みに導き出された管弦楽の妙にとどめをさす。



第3楽章 プレスト、変ホ長調、4分の2拍子

モーツァルトらしい晴れやかなロンドによるフィナーレは、決して陽気なだけの音楽にはならず、ここでもひなびたオーボエ、木訥としたホルンの響きなど、この楽団のどこかローカル色の濃いのどかな味わいによって、落ち着きのある音楽になっている。

ここでもラウテンバッハーのヴァイオリンは実直なまでにしっかりと弾きこなし、華麗に弾き飛ばしたスタイルとはほど遠い。とくにコッホのヴィオラは安定感があり、まるで古武士のように風格にとんだ演奏を聴かせてくれる。独奏部のやわらかい重音から繰り出されるインテンポの音楽がじつに丁寧で鼻についたところがない。

最大の聴きどころは調が変わった247小節でヴィオラが先行する第1楽句。この惚れ惚れするような太いヴィオラの音色は、ヴィオラ愛好家にとってはたまらない耳のご馳走だろう。これを受けるラウテンバッハーのヴァイオリンも、シコを踏むような低い重心によって、しっかりと弾きぬいてゆくところがすごい。

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激しい総奏のあとに細かいパッセージで華麗に展開する382小節は独奏者の腕の見せどころだが、背筋をぴんと伸ばした、折り目正しい拍節感覚が名人芸の誘惑をきっぱりと断ち、古味あふれる造形がオーケストラの伴奏とともに三位一体となって美しいハーモニーを奏でてゆくのだ。

「1960年代には、ピリオド系のスタイルとは違って、きちんとした拍節に従った、いわゆる崩しのない画然とした彼らの演奏がバロックの正しいスタイルとされていた。古典の作品についても同様で、近年のピリオド系の演奏家たちによる修辞的な表現に満ちたダイナミズムとは対照的に、この当時、たとえば、ベームのモーツァルトに示されているように、古典は端正に格調高く演奏すべしという考えが本道であった。」 寺西基之氏による「ライナーノート」より、コロムビア・ミュージック、2008年)



とどめはホルンとオーボエの朗らかなテーマに呼応して、ヴィオラ、ヴァイオリンの順で3連音によって駆け上る場面(432小節)が最大のクライマックスだ。決して見得を切ることなく、終始翳りを漂わせるヴィオラ、清流のような澄み切った高音を聴かせてくれるヴァイオリン、そしてやわらかな総奏による大団円をむかえて音楽が締め括られる。

当ディスクの演奏は、名だたる名手たちが火花を散らし、スター指揮者とヴィルトゥオーゾ・オーケストラが「これでもか」という自己主張を繰り広げるタイプとは、明らかに一線を画している。しかし、当ディスク所収の作品は、単なる協奏曲でもなければ、交響曲でもない。当ディスクにおいては、まさに、“協奏交響曲”として、ソリストたち、指揮者、そして、オーケストラが、ある時一体となり、また、ある時は、ここぞという聴かせどころを巧みに歌い上げながら、みずみずしく進んでいくのである。当ディスクの主役は特定の個人などではない。 満津岡信育氏による「ライナーノート」より、コロムビア・ミュージック、2008年3月)


これは地味な存在ながら、K364の名盤の1つに挙げてよい掘り出し物の一枚である。

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◆オンエア予定◆
2009年1月17日(日)午前9:00〜 「20世紀の名演奏家」 (話:諸石幸生)
<イシュトヴァン・ケルテス(指揮)の熱演>
・モーツァルト/バイオリンとビオラのための協奏交響曲K364

◆過去のエントリー◆
ブランディス、カッポーネ、ベーム/ベルリンpo(1964年 DG盤)



テーマ:クラシック - ジャンル:音楽
チャイコフスキー/交響曲第6番ロ短調 作品74「悲愴」
ジャン・マルティノン指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1958年3月31日〜4月3日 ウィーン、ゾフィエンザール(ステレオ録音)
CDROM1.gifグランドスラム GS2038(2009年8月発売) 使用音源:Decca (U.K.) SXL 2004

Tchaikovsky Symphony No.6 in B Minor Op.74 "Pathétique" [44:54]
 1.Adagio - Allegro non troppo [18:25]
 2.Allegro con Grazia [8:02]
 3.Allegro molto vivace [8:43]
 4.Finale: Adagio lamentoso [9:55]

Jean Martinon,conductor
Winner Philharmonker
Location:1958.3.31-4.3 Sofiensaal,Wien (Stereo)
Recording Producer:John Culshaw


演奏★★★★★ 録音★★★★★     [評価が2点、が1点の10点満点]


お気に入りのCDや海外のライブ録音を気ままに紹介する Musikfreund(ムジークフロイント)。本日は、ステレオ初期の名録音と謳われたマルティノンがウィーンフィルを指揮したチャイスコフスキーの交響曲第6番「悲愴」のLP復刻盤を聴く。

 CD01020.jpg     このCDをHMVで購入するicon


このディスクは、LPとして発売されたときに大ベストセラーになった屈指の名盤で、英デッカの大物プロデューサーであるジョン・カルショウの制作した音楽ファン垂涎の名録音としても名高いディスクである。

筆者が学生の当時、「悲愴」と言えば一般的にはムラヴィンスキー盤やカラヤン盤が決定盤とされていたが、このマルティノンがウィーンフィルで唯一残した「悲愴」は、その存在が一部の愛好家の間で囁かれていた「隠れた名盤」だった。

フランス人のシェフがウィーンの名門オーケストラを使ってロシアものを料理するという、当時としてはレコードでしかあり得ぬ異色の組み合わせは、カルショウによって巧妙に仕組まれた「デッカの配剤」とも言うべきもので、マルティノンは手練手管の限りをつくして老舗の楽団を自在にあやつり、類い希なセンスで音楽ファンの度肝をぬく名演奏を成し遂げたのである。


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    SLC1212(1963年キングレコード)


半世紀過ぎた今なお、決して色褪せぬこの名演奏は、後世に語り継いでいきたい名盤のひとつといえるが、このたびグランドスラム・レーベルから初期のLPから復刻したという「板おこし盤」が登場した。

すでに筆者はデッカ盤のCD(UCCD7021:2001年)によってこの演奏について書き、またGT9042(1976年)、K15C8013(1980年)、K15C7009(1985年)、K30Y1515(1987年)、230E50159(1990年)、KICC9205(1996年)、KICC8454(1998年)の番号で発売されたときの批評のスクラップを追記しているのでご併せて参照をねがいたい。
エントリー記事へ

使用したLPは1958年のイギリス・デッカ盤とのこと。当然のことながら初期のLPにみられる材質の問題からか、針の音がずいぶんと耳障りな箇所があったり、音がひっかかったり、管楽器の打ち込みが多少荒れていたりするのは覚悟しなければならない。

しかし、ここにはLPレコードのもつ独特の音の深み、温かみ、オーケストラの色合い、とくにウィーンフィルのもつ弦の濡れたような感触、木管の細やかなニュアンスや味の濃さといったものがしっかり刻み込まれていることがわかる。

 CD01025.jpg Decca (U.K.) SXL 2004


むかし針をこすって、この演奏を骨までしゃぶった人であればなおのこと、LPに針をおいたことのない世代の人たちにとってもこの音には驚くに違いない。これを聴けば、現在のリマスターされたCDはスッキリと滑らかに鳴るが、どこか美味しいところが削ぎ落とされてしまったような“物足りなさ”を感じるのは、老人のノスタルジーばかりとは言い切れないだろう。

筆者の持っているLPレコードは1970年代に輸入レコード屋で買ったもので、デッカのステレオ・トレジャリーシリーズのFFrr(full frequency range recording)と表示されたデッカ自慢のハイファイ録音のシリーズの1枚である。中央の橙色のレーベル面が小さく、レコードはずっしりと重量感があり、盤質の状態もきわめてよいもので、今、手元にLPプレイヤーが無いので、聴き比べが出来ないのが残念だ。


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   LONDON STS15018 (1966年)


「マルティノンとウィーン・フィルの唯一の競演盤。デッカの初期ステレオLPからの復刻ということだが、音の劣化やひずみは皆無に近い。深みと柔らかさ、温かみのあるLPならではの質感をそのままに感じ取れるのは得がたい。第1楽章や終楽章での主題の扱い方や歌わせ方には、“フランスなまり”のような微妙なニュアンスがうかがえるのも一興。しかしアクセントや要所の際立たせ方は鋭敏で引き締まった表現をする。優美な第2楽章、とりわけ第3楽章のスケルツォなどは奏法やメリハリのあるテンポ感が出色。」  斎藤弘美氏による月評、『レコード芸術』通巻第709号より、音楽之友社、2009年)


「このたび、グランド・スラム・レーベルの、いわゆる“板起こし”CDで30年ぶりに聴き直し、驚いた。音そのものの、なんと素晴らしいこと! 使用された盤はDecca(U.K.)SXL2004 とある。1950年代のデッカ録音は、近接マルチ・マイク(?)による〈痒いところに手が届きすぎる〉分離感と、なにかこう、オーケストラを段ボール箱の中に閉じ込めたようなモコモコ感が同居していて、およそ音楽的とは言えないというのが筆者の意見である。これはその不自然さがあまり気にならない。」  『クラシックジャーナル』039、船木篤也氏の推薦ディスクより、アルファベータ、2009年)




第1楽章 アダージオ、アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ロ短調、4分の4拍子

バスの低音の動きがじつに生々しい。運弓が見えるというか、弓を返すところが手に取るように伝わって来るのだ。提示部のヴィオラの細かいニュアンス、刻みのつぶ立ちや弦をひっかくときに生じる「ガリッ」とした感触も生々しく感じ取れる。37小節から1stヴァイオリンがクレッシェンドしながら「ぐいぐい」と上昇するパッセージは、弓の圧力すら感じさせてくれるではないか。

62小節から木管と弦がかけ合う場面は、前のめりに突っ込んで、転ろびかけの木管楽器に思わず失笑してしまうが、ブラスの立ち上がるウン・ポコ・アニマート(67小節)がすごい! にぶい出だしの金管がしだいに目覚め、トロンボーンが牙をむいたように吠えかかってくる。72〜73小節の爆発的なパンチの効いた総奏は聴き手の興奮をさそう名場面といってよい。

第2主題のアンダンテ楽想はフランス人指揮者が細やかなセンスをみせる。弱音器をつけたウィーンフィルの弦がしとやかに旋律をかなで、ゆたかなニュアンスを紡ぎ出すところが大きな聴きどころで、94、98小節の4拍目の8分音符に少し浮遊感を持たせて、「にっこり」と微笑むように歌わせる独特のルバートが印象的だ。

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弦の美しさをたっぷりと堪能させてくれるのは弱音器をはずした130小節のアンダンテだ。わずかにかかるポルタメント、しっとりと濡れたような肌触り、練り絹のような味わいの深さはCDで聴くよりも格段に色艶が増している。指揮者とオーケストラが繰り出すワザと音色(ねいろ)の美しさにはすっかり驚かされてしまった。

展開部のアレグロ・ヴィーヴォ(161小節)は腰の強い瞬発的な総奏の衝撃音に腰を抜かしてしまう。とくに弦の分散和音が馬車馬のように走り出し、トランペットが決然と打ち込まれる189小節あたりから、優美なウィーンフィルが野性味を出して牙を剥き出しにする。

197小節でティンパニが「2発」決めるところは、まるで奏者が指揮者の目の前で叩いているかのような錯覚にとらわれてしまう。これは現実には決してあり得ぬエンジニアのつくり出した虚妄の音場ではあるが、何時聴いても「スカッ」と快感すら感じさせてくれるつぶ立ちの良さがたまらない魅力だ。

弦楽器がうねるように上り詰めると、いよいよドラマは再現部(245小節)にやってくる。弦の16分音符パッセージに対峙するところの、裏拍で叩くティンパニの音に注目だ!小躍りするようにリズミカルに叩かれるティンパニは、皮の振動によるものか、バチの木が皮にあたるときの音なのか、カスタネットのように「パカっ、パカっ!」と景気よく打ち響く気持ちのいい打点は、何度も繰り返して聴きたくなる名録音といってよい。

ティンパニ奏者の近藤高顯氏によると、ウィーンフィルが伝統的に使っているヘッドは「山羊の皮革」とよばれるもので、これが独特の音色を生んでいるという。それをフランネル(ネル生地を重ねたもの)のマレット(バチ、撥)で叩く。そもそも、ティンパニの音というのは輪郭をマイクでは拾うのは至難のワザで、アナログの時代はカラヤンもマイクをティンパニの鼓面から10センチくらいの至近距離にセットして録音していたらしい。適度な硬度と温もりを持つ「野性的なウィーン・フランネル」が皮革を叩くときに生ずる濡れたような触感を、デッカの録音技術がものの見事に拾っている。


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そしてクライマックスのとどめは高音部の第1主題に、3連音のリズムを情け容赦なくぶち込むホルンとトロンボーンのすさまじいばかりの衝撃音だ! ここはあまりの衝撃の強さに鳥肌が立ってくる。聴き手の頬を鞭打つような、空気圧すら迫り来るエッジの効いた録音が聴き手を阿鼻叫喚の地獄にさらすのだ!

センプレ・フォルテ(277小節)は「ガッ」と喰らいつくようなチェロの気迫を込めた弓使い、奏者の体ごと揺れるような「ぶるぶる」と震えるホルンの叫び、そして身を八つ裂きにするかのようなトロンボーンの衝撃音、といったあまりにも生々しい慟哭の表情の数々が聴き手を震撼させ、奈落の底に突き落とす。ティンパニの壮絶なクレッシェンドとともに、ffffを「べぇ〜〜ッ!」とぶちかますトロンボーンのグロテスクなまでの凄まじい断末魔には身が震え上がってしまう。

第2主題が再現するエンディングも、リテヌートの箇所で大きくねばりをいれて、その頂点で一発「パカっ!」とひっぱたくティンパニのsff(315小節)が聴きどころだが、大きくうねる雄大な弦、こってりと歌い返すチェロ、そして325小節の透き通るようなクラリネットの透明な音にもぜひ耳をそば立てたい。アニマートの330小節(16分38秒)から大きな「サー」という大きなノイズが耳に障るが、最後に見せる弦のピッツィカートは、指で弦を弾くときの生の感触すら伝わってくるのは見事なものである。

「たとえば、第1楽章、ファゴットのppppppによるニ音が消え、アレグロ・ヴィーヴォで全管弦楽で爆発するときときの突発感、ティンパニの強打によるあの痛いような衝撃。ここはきっとマニアの間で熱っぽく語られるシーンではなかろうか。その効果たるや、もの凄いものがある。筆者は30年前に、ここで失笑を漏らしたものだが・・・・」  『クラシックジャーナル』039、船木篤也氏の推薦ディスクより、同上)




第2楽章 アレグロ・コン・グラツィア、ニ長調、4分の5拍子

たっぷり弾かれたピッツィカートにのって、チェロがくっきりと浮かび上がる味の濃い旋律線がたいそう魅力的だ。6小節目の「ラッタラッタラ〜」を少しテンポを緩めて間延びして歌わせ、7小節目のグリッサンドに大きな“ねばり”を入れる指揮者の「遊び心」には仰天してしまう。

2カッコをぬけた変奏も弦のやわらかさは比類がない。この当時ウィーンフィルが備えていた音の旨味を惜しげもなく開陳してみせるフランス人巨匠の粋な計らいには、ただもう感嘆の言葉しか思い浮かばない。

 CD000274.jpg  Jean Martinon (1910-1976)


中間部(57小節)のピアノ指定は徹底した弱音にこだわりをみせる。美しくも哀しい世紀末のロマンをほのかに演出してみせる心憎いまでのピアニシモの美学、くり返しをぬけた第2楽句にみせる艶をのせてしみじみと奏でる甘美な語り口、思い入れたっぷりにテンポを落として主部の再現(96小節)に入るタイミングの上手さなどは筆紙につくしがた
い。

再現部はさらに表情を濃密にし、大見得をきったようなグリッサンドを堪能させてくれるが、111小節からヴァイオリンが駆け上がるパッセージの羽毛のような柔らかさ、終結部の160小節で見せるチェロの思い入れたっぷりの表情の濃さはいかばかりであろう。そして名残り惜しげに紡がれるピッツィカートの最後の1音の意味深さといったら!

「強音ばかりではない。第2楽章最後の弱音ピッツィカートなど、指が弦にふれるときの触感まで伝わってくるようで、いかにも雰囲気満点といった感じだ。」  『クラシックジャーナル』039、船木篤也氏の推薦ディスクより、同上)




第3楽章 アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ(スケルツォと行進曲)ト長調、4分の4拍子

短く切った弦のスピッカートのリズムがじつに気持ちがいい。それにつられるかのように8小節で入るオーボエが辛口のテーマを聴かせてくれる。1stヴァイオリンのピッツィカートの途中から木管のリズム打ちにピッコロがくわわると、これが絶叫するように「キシキシ」と鳴り響く音場は見事なものである。

圧巻は弦のスピッカートがピアノから少しずつクレシッシェンドしながら走り出す場面で、ダイナミックともいえる躍動感にはゾクゾクしてしまう。そしてその頂点(69小節)でティンパニと大太鼓がフォルテで一発叩かれるところの心地よい衝撃音!

4分の4拍子に変わる行進曲(71小節)は踊るように歌うクラリネットの表情に注目だ。まるで遊んでいるような奏者の戯けた表情が目に見えるようである。短く切り刻む弦のフレージングも独特のもので、指揮者の鋭利なセンスがキラリと光る。そしてスケルツォの小結尾で弦が駆け下りてきたあとに、ティンパニのトレモロが裸になるところ(195小節)が聴きものだ。餅をつくような「ペタペタ」とした感触というか、皮の質感を感じさせる打点のつぶ立ちの良さが、聴き手の耳の快感をあざとく誘っている。

行進曲の断片を切るように弾んで、手際よく229小節の行進曲の総奏(1回目)に追い込んでゆくところはマルティノンの鮮やかな棒さばきに魅せられてしまう。爆発したような躍動感、きしむように波うつ弦楽器、シャッキリと弾むマーチは聴き手の興奮を誘い、思わず指揮をしたくなる衝動にかられてしまう。

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ティンパニ、シンバル、大太鼓が炸裂する音場の見事さは、復刻盤ではさらに切り立ったような鋭さを見せつけてくれる。「コロコロ」とつぶ立ちよく鳴るティンパニのトレモロの狭間から、分厚いトロンボーンとトランペットが入れ違いに喰らいついてくる野性味あふれるオーケストレーションを存分に堪能させてくれたあとに、いよいよ劇的なクライマックスがやってくる。

2回目の行進曲の大総奏に入る直前の、大太鼓とシンバルの一撃をぶち込むところ(282小節)で、マルティノンは大きくリタルダンドをかける。聴き手の度肝をぬく一発必中の大ワザだ! レトロな大家がたまにやる“必殺の大減速”を、フランス人指揮者が老舗の楽隊と「阿吽の呼吸」でやってのけている。間の取り方といい、鳴り物の打ち込ませるタイミングといい、弦の入れ方といい、乾坤一擲、どんぴしゃのタイミングでやっているのだ。

おそいテンポでシコを踏むようなねばり腰の行進は、ウィーンフィルの自家薬籠中のものといえるが、コーダでようやくテンポがもとに戻るとシンバルのすさまじい衝撃音、トランペットの圧倒的なクレッシェンド、腰のあるブラスの打ち込み、重量感のあるオーケストレーションといった音の洪水が「これでもか」と怒涛ごとく押し寄せてくる。切って捨てるようなフィニッシュのさばき方や、ウィーンフィルの野性的なブラスの生のような衝撃音にはただもう驚くばかりだ。

「演奏そのものについていえば、第1楽章さいごの妙にピッチの高いホルンや、第2楽章の、主要主題の頂点でいちいちかかるルバートとか。第3楽章さいごの大見得を切ったような減速(よくある手)とか、首を傾げたくなるところもなくはないのだが、基本的にストイックな音楽の運び・音響で、非常に魅せられる。」  『クラシックジャーナル』039、船木篤也氏の推薦ディスクより、同上)




第4楽章 フィナーレ、アダージオ・ラメントーソ、ロ短調、4分の3拍子

厚味のある弦楽器をなみなみと盛りつけた濃厚なアダージオだ。ファゴットの独白のような慟哭の表情も見事なものだが、アンダンテも音楽の表情がすこぶる濃い。ウィンナ・ホルンの切分音にのって、ウィーンフィルの弦楽器が第2主題を纏綿と歌いだす。

深々とバスの低音を打ち込む音場は効果満点だが、物思いに沈んだ表情の深さは言わずもがな、弦の蠱惑的な響きによってほのかな憧憬の念すら滲み出してくるところはあまりにも感動的だ。テンポ・プリモ(55小節)から次第に高揚し、弦が艶をたっぷりのせて、心をこめて歌うところは復刻盤ではさらに哀しい色が増して涙があふれ出そうになる。

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ストリンジェンドの頂点から弦が降りてきて、ティンパニと弦の打撃が打ち落とされると、音を切るようにして強引とも思える手口で紋切り調になってゆく。弓を深くえぐっては切って返し、圧力をかけて旋律をゆさぶってゆく。106小節のフォルテのチェロが速く飛び出してくるところなどは、まるで実演に接しているかのように生々しく、奏者の気迫すら伝わってくる。感情の起伏が大きく波打つ音楽が深い感動的をよぶ。

号泣するように激しく吠える金管、タムタム(どら)の一撃の悲痛ともいえる余韻は聴き手を悲しみのどん底に突き落とす。弱音器をつけた弦楽器はすすり泣くように深い嘆きと悲しみをかなで、悲痛な表情が生々しく刻印されている。深々と入れるバスの喘ぐような刻みは悲しみを通り越して恐ろしくさえある。

「それが極まるのが第4楽章。抑えた慟哭とでも言おうか、アンダンテ・ジュストの最終シーンでは、最後のリテヌートもほとんど無視してイン・テンポで事切れる。その荒涼たる景色に、慄然としてしまう。この終楽章だけでも傾聴に値する、たしかに、これは“名盤”であろう。」  『クラシックジャーナル』039、船木篤也氏の推薦ディスクより、同上)


「ウィーン・フィルハーモニーを指揮してのチャイコフスキーの『悲愴』はマルティノンの個性が露骨といってよいほどに劇的に表現されたものある。チャイコフスキーをベルリオーズと置きかえたような特徴と面白さを合わせもった、特色のある演奏である。かれがいつも音楽の説明をいきいきと強い表現力をもって華やかに行う特徴が鮮明に、そして健康的にあらわれたものであって、ロシアの作品だけに旋律の処理などはいくぶん粘り気味で、テンポ・ルバートの使い方がいささか芝居がかってもきかれるが、マルティノンはそうした表現のなまなましさを常に求めていた指揮者なのである。」  村田武雄氏による「マルティノンの死」より、『レコード芸術』通巻第308号、音楽之友社、1976年)


「マルティノンはいつにない激しさと厳しさと、そして甘さとで他のオーケストラの追随を許さぬ奥の手を見せている。まさにひと主張もふた主張もある大家の音楽である。マルティノンの切れ味は鋭く目立つ。」  大木正興氏による月評より、LONDON GT9042 『レコード芸術』通巻第304号、音楽之友社、1976年)


これは名匠マルティノンが名門オーケストラを使って、一期一会の名演奏をやってのけた「悲愴」の決定盤で、初期のLPのもつ深い表情が生々しく刻印されたお宝の一枚である。


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◆チャイコフスキー交響曲第6番ロ短調「悲愴」 過去のエントリー
メンゲルベルク/アムステルダムコンセルトヘボウ管(オーパス蔵 1937年)
モントゥー/ボストン響(RCA 1955年) 
マルティノン/ウィーンフィル(DECCA 1958年)
カラヤン/ベルリンフィル(EMI 1971年)
広上淳一/京都市響(2009年4月大阪公演)


テーマ:クラシック - ジャンル:音楽