ラウテンバッハーのバッハ/2つのヴァイオリンのための協奏曲

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バッハ/2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調 BWV1043
スザーネ・ラウテンバッハー(第1ヴァイオリン)
ディーター・フォアホルツ(第2ヴァイオリン)
ギュンター・ケール指揮 マインツ室内管弦楽団
Recording: 1962 (Vox)
Licensed by Ariola-Eurodisc GbmH, Munich
Length: 18:17 (Stereo)
Disc: COCQ-84713


このディスクは、コロムビアのヴォックス・ヴィンテージコレクション Vol.2の〈バッハ協奏曲集〉として米Vox原盤から復刻された1枚である。同シリーズはドイツを中心とした往年の名演奏家による録音が数多く含まれており、地味ながらレトロな味わいのある演奏が多い。この《2つのヴァイオリン》は国内初発売とのこと。

sv0097e.jpg独奏を受け持つラウテンバッハー(1932~)は、すでに引退した過去の人だがレコード録音は多く(70枚以上といわれる)、一時代前にバロック音楽でも名を馳せた名女流ヴァイオリニスト。

アウグスブルクの音楽一家に生まれ、ミュンヘン音楽大学でカール・フロイントに師事し、シェリングの門下生でもある。
TOWER RECORDS  amazon  HMVicon

1964年にケルン合奏団の第2ヴァイオリンの首席奏者として来日、1983年には東京でリサイタルをひらき、バッハの無伴奏から3曲ほかを演奏している。若い頃の写真をみると、これがなかなかの美人。

「ラウテンバッハーはピリオド系スタイル以前の、いわゆる“正統派”とされてきた流れを代表する演奏家といえよう。ラウテンバッハーの特質である師シェリング譲りの高潔さ、整った造形、折り目正しいフレージング、明確に際立たせた1つ1つの音とその連なり、楷書体ともいえる端然たる直裁な弾きぶりであり、ドイツ人らしい堅実な資質とも相俟って、細部まできっちりと弾きこんだ演奏となっている。」( 寺西基之氏による「ライナーノート」より、コロムビア・ミュージック、2008年)


sv0097b.jpgここで聴く《2つのヴァイオリンのための協奏曲》(通称ドッペル)はラウテンバッハーの飾り気のない端正な演奏スタイルが特徴で、ドイツ流の拍節をまもった安定感のあるフレージングによって、女性らしいたおやかな情感と、しっとりとした哀しみが綴られているのが特徴。

ゆとりのあるテンポから旋律線はしっかりと弾き出され、果肉のみっちり詰まった濃密で、しかも温かみのある音色がたまらない魅力である。  COCQ-84714

「このバッハの協奏曲3曲の録音は、当時としては知的で斬新な録音ながら、ラウテンバッハーの録音としては珍しい部類に属する。演奏については、知的、端正、オーソドックスというにつきる。第1番など、そのパッショネイトな性格を反映した見事な演奏で、音程の取り方ひとつにも知性が感じられる。」 渡辺和彦氏による「ライナーノート」より、コロムビア・ミュージック、2009年)



第1楽章 ヴィヴァーチェ
sv0097c.jpgゆるやなトゥッティ主題のたっぷりした弦楽合奏が心地よく、レガート主体の低音部の対位をしっかりと響かせるあたりは、いかにもドイツ流で、中部ヨーロッパ的なサウンドといえる。

指揮者のギュンター・ケール(1920~89)はマインツ室内管の創設者で、ヴァイオリニストで学者でもある。
COCQ-84529

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sv0097d.jpgニ短調で完全終止して開始する10度跳躍のソロ主題(22小節)を、ラウテンバッハーがしっとりと憂いを漂わせながら、1音1音丁寧につむいでゆくところが印象的だ。

高音部の絹擦れのような美しい音色がとくに魅力的だが、それにも増して中低音の肉感のある温もりのある音が聴き手の耳を惹きつけてやまない。

TOWER RECORDS [TWSA-1033] 
amazon [COCQ-84441]
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sv0097f.jpg16分音符の分散和音は決して弾き急がない。勢いにかられて指をとばすことなく、1つ1つの音をしっかりと拾っていくスタイルは端正で実直の一語に尽きる。ヴァイオリンを習う者にとっては良きお手本になる演奏になろう。

第2ヴァイオリンのフォアホルツも同様のスタイルで、低音域で太い音を響かせて第1ヴァイオリンをしっかりと支え、安定感のある演奏を繰り広げている。

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sv0097o.jpgトゥッティの繰り返し後にはじまる主題の展開(50小節)も、落ち着きのある手堅いアプローチで、息をのむような華麗な弓さばきや、ゾクゾクさせるようなヴィルトゥオジティとは無縁の、型にはめて一歩一歩生真面目に歩む感がつよい。
しかも厳粛に内面を掘り下げながら、しっとりと哀感をにじませて歌い込んでゆくところがじつに感動的だ。

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独奏楽器を左右のチャンネルに振り分けた録音は分離感があり、ところどころ音にひっかかりあって年代を感じさせるが、厚味のある自然でのびやかなサウンドが耳にやさしく、昨近の古楽奏法による切れのするどいデジタル音には感じられない温かみと手づくりの味わいがある。


第2楽章 ラルゴ・マ・ノン・トロッポ
sv0097h.jpgバッハの創作した最も美しい音楽のひとつに数えられるラルゴは、悠久の流れを感じさせる落ち着きのある演奏で、いつ果てることも知れぬ綿々とした流れの中に身を浸したくなってしまう。

女性らしい艶をしっとりとのせた情緒纏綿たる歌い回しや、心に沁み入るような切分音は言わずもがな、トリルのひとつをとっても奏者の心が込められている。

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sv0097m.jpg物思いにしずむようなエピソード風の間奏曲(16小節ほか)の味わい深さや、緩やかに飛翔する第2主題ウェットな歌い口も聴きどころのひとつだろう。

中間部(24小節から)で16分音符の美しい綾を織り込みながら、とめどもない哀しみが綴られてゆくところはバッハにそっと寄り添うような清楚なたたずまいがある。


高音域で高揚することを避けるかのように、やさしく第2ヴァイオリンの第1主題を導くアプローチも心憎く、ラウテンバッハーの芸格の高さを伝えてあますところがない。

sv0097n.jpgなお、第1主題が再現する44小節で、第2ヴァイオリンが冒頭の4小節と同じように、記譜上にはないH音にトリルを入れているが、これは、多くのヴァイオリン奏者が慣習的に採用しているものだろうか。

トリルを入れずに楽譜通り演奏しているのは、手持ちのCDではハイフェッツ盤のフリードマンだけである。また14小節(および48小節)については旧バッハ全集のes(変ホ)ではなく、バッハの手稿通りe(ホのナチュラル)で弾いている。


第3楽章 アレグロ
sv0097j.jpg独奏楽器が目まぐるしく追いかけるようにストレッタされたカノン主題を、独奏者は楷書風の折り目正しいフレージングによって、キメ細やかな味わいをしっとりと紡ぎだしてゆく。

緊張感には乏しいが、うるおいと香りを添えて音楽に快いポエジーを与えてゆくあたりがラウテンバッハーらしい。

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大きな聴きどころは、第1と第2の独奏楽器が合一となる重音による和声進行(41小節)。弓をいっぱい使い、背筋をぴんと伸ばして厳正に和音をさばいてゆくさまは実直そのもので、あれこれと小細工を弄せずバッハの核心に真正面から毅然と切り込んでゆく独奏者の潔さが印象的だ。

sv0097k.jpgソロ主題の再現(48小節)は艶をたっぷりのせて、さらにスケールを増した表現によって大きく歌い回してゆくところがすこぶる感動的だ。

3連音を決して弾き急がず、ゆったりしたテンポと左右に分かれた独奏楽器の分離感によって、バッハの緊密なポリフォニーの書法が明瞭に解き明かされているあたりもこの演奏の大きな聴きどころだろう。

分散和音の波がたゆたう中を、太い音でしっかり歌い出される第3主題(73小節、112小節)も音楽の密度は濃く、悲哀感を織り込みながらも、快い流動感と安定感のあるフレージングによって音楽が大きくゆたかに息づいている。

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sv0097l.jpg2度目の重音パッセージのヤマ場(127小節)もカッチリしたフレームの中で厳粛な気分を張り巡らせているが、結びのストレッタの第1主題と3連音パッセージは名人芸とはおよそ無縁の、実直で崩しのないスタイルを貫き、全曲を格調高く締め括っている。

分離の良いまろやかな録音と相まって、バッハのポリフォニーを心ゆくまで堪能させてくれる掘り出し物の一枚だ。


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[ 2017/08/26 ] 音楽 J.S.バッハ | TB(-) | CM(-)

ヒラリー・ハーンのバッハ《シャコンヌ》

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バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番
ニ短調 BWV1004
ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)
Recording: 1996.6.17-18,12.23,1997.6.17-18
Location: Troy Savings Bank Music Hall, New York
Producer: Thomas Frost (Sonny)
Engineer: Richard King
Length: 33:16 (Digital)
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ヒラリー・ハーンといえばバッハ。バッハといえばヒラリー・ハーンが思い浮かぶほど、彼女の名刺代わりで原点ともいえるのが無伴奏ソナタ。17歳のときに録音したデビュー・アルバムはハーンが絶対の自信をもってぶつけた“勝負曲”といえる。

sv0029c.jpgバッハの無伴奏ソナタはヴァイオリン奏者にとってバイブルといえる曲で、その中の3つの組曲はパルティータとよばれ、自由な形式の舞曲を特徴とする。第2番は5曲で構成されるが最後に置かれた《シャコンヌ》がとくに名高く、スペインの古い形式の舞曲に起源をもつという。

バスの声部を64回繰り返し、その上に30の変奏を築き上げるという全257小節の大曲で、古今のヴァイオン奏者にとって高度な技巧と深い精神性が要求される最高峰の作品だ。
  Original Album Classics

「いきなりバッハの無伴奏曲をぶつけてくるところからして尋常ではない。よほどの音色と技術がないと“暴挙”ともなりかねない。ハーンの演奏はそうした懸念を見事に粉砕してくれる。1音1音に対する妥協のない音質作りは出色で、表現はそうした音色美に酔うことなく整然と整えられていく。音色の余韻を配慮したのびやかな歌いまわしは心に染み入るようだし、フーガやシャコンヌなどのテクスチュアの際立たせ方も鮮やかである。疑いもない逸材である。」 斎藤弘美氏による月評より、SICC354、『レコード芸術』通巻第652号、音楽之友社、2005年)


「いきなりバッハの無伴奏というのも驚きだが、その演奏が素晴らしかったから、さらに度肝を抜かれた。ピンと張った緊張感、推進力、迷いのない強固な意志、鮮やかなテクニック、どれも圧倒的で、その印象はいまだに色あせない。彼女の原点であると同時に、今もなお、代表盤だろう。特別なコンクール歴なしにこういう才能が登場してくることにも、当時は考えさせられた。」 ONTOMO MOOK 『20世紀の遺産』より、山崎浩太郎氏による、音楽之友社、2011年)



第1楽章 アルマンド ニ短調、4分の4拍子
sv0044m.jpg弦をゆたかに鳴り響かせ、ゆったりしたテンポで入念に紡いでいくスタイルがハーン流。連続した16分音符の中にちりばめられた32分音符や3連音符にヤクザな崩しを入れることなく、ほどよき緊張感を保ちながら、フレーズを淀みなくさばいてゆく。

聴かせどころはツボを押さえたように最高音をリテヌートし、これを見得を切らずに決めるあたりが心憎く、重音の清楚な美しさもハーンならでは。

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第2楽章 クーラント ニ短調、4分の3拍子
sv0044n.jpgヴィヴァーチェの速い舞曲は、8分音符の3連音と付点音符を組み合わせた躍動感あふれる楽想で、付点をたっぷり弾んで気持ちがいい。全体の筆致はまろやかで、技巧の切れという点では控えめだが、第2部のなだらかに上下する3連音処理を円舞曲のように仕上げるあたりはハーンの真骨頂。舞曲の愉悦を気高くまとめている。決めどころの重音の冴えた響きも絶品といえる。

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第3楽章 サラバンド ニ短調、4分の3拍子
sv0044o.jpgシャコンヌによく似た8小節を繰り返す荘重なサラバンド主題は、適度なねばりに艶をのせて、ハーンはしなやかに歌いぬく。ここでは深淵な楽想に思い込め、1864年製のヴィヨーム(J.B.Vuillaume)のゆたかな重音の響きを堪能させてくれる。決して安直に弾き流さず、16分音符を保持して格調高く仕上げるところはハーンの面目が躍如している。

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第4楽章 ジーグ ニ短調、8分の12拍子
sv0044p.jpgみずみずしいハーンの感性を最大限に発揮したのがジーグ。アルペジオと分散和音を組み合わせた16音符の細かい走句を水も漏らさぬしたたかさで、いとも軽やかに弾きあげている。つんとすまして「こんなものは屁の河童」といわんばかりのハーンの演奏を老大家たちに聴かせたら、地団駄を踏んで悔しがるに相違ない。

第2部5小節のと8小節のリテヌートに驚かされるが、最低音と最高音でぬめるように歌う“ヒラリー節”が即興的で、型にはまらぬ生き生きとした弓運びが印象的だ。

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第5楽章 シャコンヌ ニ短調、4分の3拍子
第1部 ニ短調(主題と第1変奏~第15変奏)1~132小節
ハーンの底知れぬ実力を知らしめるのが作品の中核をなす〈シャコンヌ〉だ。ここでハーンはきわめて遅いテンポをとり、アンダンテもしくはグラーヴェとされる楽想を入念に歌い込む。

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sv0029a.jpgねっとりと太い音で歌いつつ、「ガッ」と噛みつくような重音を轟かせる第1変奏、細やかなヴィブラートをかけて澄みきったハーモニーを響かせる第2変奏から早くも聴き手を酔わせてくれるが、ハーンが本領を発揮するのは、ゆるやかな8分音符へと音型が変わる第3変奏 [1:38] からだ。

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スケールの大きな構えと絶妙の節回によって、16分音符のフレーズを伸びやかに歌いまわすところはすこぶる感動的で、高い音から低い音へ急速に変化する複音楽的な第4変奏の深みのある音、香気がゆるやかに立ちこめる第5変奏 [2:43]、 分散和音で揺らぎながら哀しみを掘り下げてゆく第6変奏 [3:16]、 そこからクライマックスへとのぼりつめる密度の濃い歌など、バッハの核心に迫ろうとするハーンの鋭い技巧とひたむきさな情熱が筆者の心をとらえて離さない。
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「バッハだけは私にとって特別なもので、ちゃんとした演奏を続けていくための試金石のような存在です。重音の部分できれいなイントネーションが出せるか、フレーズごとに変化に多彩な音色が出せるか、不用意なアクセントを付けずに弦の上を滑らせることが出来るか-どれひとつとしてバッハは誤魔化しがききません。逆に全部うまくこなせれば、この上なくすばらしい音楽が歌い始めます。」 ヒラリー・ハーン、バッハを語る、渡辺正訳、ソニー・ミュージック・ジャパン、1997年)


大きなクライマックスは第7変奏 [3:49] から。2声の肉付きの良いこなれた音によって、ウェットな情感を込めて纏綿と奏でる音楽はバッハの精神を極めた感があろう。
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sv0029g.jpg32音符の波にのって上下にたゆたう第8変奏 [4:16]はハーンの冴えた技巧の独壇場で、流麗闊達に歌いつつ、これを阻止する低音部のきっぱりした弓さばきは大家の風格すらただよわせている。すすり泣くようなピアニシモを聴かせる第10変奏 [5:11] も印象的で、後半では32分音符を水を得た魚のようにひた走る軽やかさが耳の快感を誘っている。

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sv0029h.jpg第1部の総仕上げは第11変奏から第14変奏にかけての長大なアルペジオ [5:48] 。緩急自在とはまさにこのことで、32分音符の中に潜むレガート、スタッカート、3連音形を駆使した複音楽的なフレーズを変幻自在に伸縮させてバッハの歌を聴かせるところは圧巻で、頂点に達する第15変奏 [8:04] シャコンヌ主題の原型が再現する‘決めどころ’の妖しいまでの美しさといったら!

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第2部 ニ長調(第16変奏~第24変奏)133~208小節
ニ長調に変わる第16変奏 [9:00] から、ハーンは柔らかな和音を重ねて聴き手の心にやさしく微笑みかけてくれる。柔和で細やかな語り口によって、明日への希望と生きる勇気をあたえてくれる第17変奏 [9:34] 2声の心の歌は涙もの。
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sv0044r.jpg太い音で揺れる低音部と華麗に舞う高音部の歌が協調しながら眩いほどの気品を湛えている。心にしみ込むような清冽な分散和音第18、19変奏)と、情熱が迸るかのように2声で絶叫する第20変奏 [11:20] は美麗の限りが尽くされている。

中間部のクライマックスは言うまでもなく第22、23変奏 [12:23]。ここでは原型に近いシャコンヌ主題をゆたかな和声で鳴り響かせ、「これでもか」と美音を重ねて高音域へとのぼりつめるところはハーンの究極のバッハ像が開陳されている。

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sv0044q.jpg心が浄化されるような清らかさと深い瞑想が一体となり、冴えた技巧と調和しながら絶頂へと到達する場面はじつに感動的で、仕上げに濁りのない和音を重ねる第24変奏アルペジオ [13:29] の神々しさは、“天国の浄福”としか言いようがない。

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「バッハはモナ・リザの微笑のように、最も大事な部分は捉えにくいのです。バッハの音楽は人間の本質を表現し、光と影、孤独と交わり、高揚感と深い哀しみといったさまざまな要素がその中でひとつになっていると言う人もいます。聴き手は葛藤から美しい解決へと導かれます。解決に出会って満ち足りた気分になっても、すぐにまた探り出させるのを待つかのような別の表現が現れます。これはバッハのすべての作品に共通して言えることだと思います。」 ヒラリー・ハーン、バッハを語る、木村博江訳、ユニヴァーサル・ミュージック、2003年)



第3部 ニ短調(第25変奏~第30変奏)209~257小節
sv0044s.jpg原調にもどる第25変奏 [14:04]は、ふたたび第1部の瞑想的な気分がもどってくる。分散和音で神秘的に揺れる第26変奏は、無我の境地で楽の音を奏でるハーンのクールな一面を見せているが、あくまで最後のクライマックスへ到達するための序奏にすぎない。

ふたたび哀しみの表情を湛えながら(第27変奏)、後半にあらわれる16分音符を互い違いに貼り合わせたような保持音型とその下の声部をたっぷりと聴かせ(第28変奏)、これがドラマチックに盛り上がってゆく。

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上昇3連音から波打つように第30変奏の頂点[16:59]へ駆けのぼるところの華麗にして緊迫した表情は堂に入ったもので、非のうちどころのない高度な技巧と集中力によって厳粛に弾き出されてゆく。終曲のぴたりと決まる音程、切れのある弓さばき、磨き上げられた重音とトリルを存分に響かせて全曲を美しく結んだ感動の一枚だ。

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【エントリー記事】ヒラリー・ハーンのバッハ/2つのヴァイオリンのための協奏曲

[ 2015/05/30 ] 音楽 J.S.バッハ | TB(-) | CM(-)

ヒラリー・ハーンのバッハ/2つのヴァイオリンのための協奏曲

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バッハ/2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調 BWV1043
ヒラリー・ハーン(第1ヴァイオリン)
マーガレット・バトヤー(第2ヴァイオリン)
ジェフリー・カヘイン指揮 ロサンゼルス室内管弦楽団
2002.10 Hervert Zipper Concert Hall, Los Angels (DG)
Recording Producer: Thomas Frost
Balance Engineer: Tom Lazarus
Length: 14:16 (Digital)
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デビュー盤から7年、ドイツ・グラモフォン(DG)への移籍第1弾となった記念すべきアルバムに、ハーンは十八番であるバッハの《協奏曲集》をぶつけてきた。ハーンがソニーからDGに移籍した経緯は詳らかではないが、われわれの目にはDGの戦略と相まって、ハーンが得意とするバッハで勝負を仕掛けたという印象がつよい。しかし、ハーンによると、偶々ソニーの企画をDGが引き継いだだけで、特別な意図はなかったという。

sv0029b.jpgここでは24歳のハーンが、とてつもない速いテンポで颯爽と駆け走るのが特徴で、歌謡的な楽想をそよ風のように清冽に歌い、生き生きと踊る。厳粛で深遠なバッハを求める者にとっては、性急で深みに乏しいと見る向きもあるが、そのスタイルは洗練を極め、聴いた後では爽やかな新鮮味が勝ってしまう。これはきわめてスタイリッシュな感覚で仕上げた現代風のバッハといえないか。

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相方の第2ヴァイオリンを受け持つのは、ロサンゼルス室内管弦楽団のコンサート・マスターをつとめるマーガレット・バトヤー。ここでは対位的な声部をハーンとほどよく調和しながら、目立たぬところでハーンの妙技を引き立たせているところが心憎く、第3楽章では難技巧のパッセージをハーンと互角以上に渡り合い、ソロ奏者としても腕を鳴らした玄人ぶりを発揮しているのは嬉しい不意打ちだろう。

「ハーンらしいセンスが光る溌剌とした演奏である。これはあくまで現在のハーンの解釈というべきだろうが、バッハの協奏曲から自分が読み取ったものを自身をもって奏で、その音楽を存分に味わい楽しんでいるようである。カハーンとロスアンジェルス室内管弦楽団も、少し勢いにかられる感じもあるが、そうしたハーンに若々しい推進力にとんだ演奏で呼応しており、第2ヴァイオリンのバトヤーとオーボエのフォーゲルも、その能力を存分に発揮し、好演している。4曲を聴きつづけてゆくと、緩急の変化が少々型にはまった感じがしないでもないし、時にはもう少し深い翳りのある表現も聴きたいところもあるが、颯爽とした生気あふれる演奏は、これらの協奏曲にとても新鮮な光を当てている。」 歌崎和彦氏による月評より、『レコード芸術』通巻第638号、音楽之友社、2003年)



第1楽章 ヴィヴァーチェ
sv0029c.jpgトゥッティの颯爽とした音楽運びに仰天するが、ニ短調に完全終止したあとにはじまる10度跳躍のソロ主題(22小節)を、第1ヴァイオリンのハーンがフレッシュな感覚で弾きあげる。清楚で気品があり、しかも力強さを感じさせる弓さばきは闊達自在の一語に尽きるといってよく、歌い回しの巧さや、スタッカートの歯切れ良さなど、冴え冴えとした技巧に思わず膝を打ってしまう。   amazon
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4小節あとに模倣するバトヤーの第2ヴァイオリンは、ハーンに聴き劣りするのは否めない。とくに2度目の模倣(38小節)ではバトヤーの弓の切れがあまく、16音符の仕上げに粗さすら感じさせるのが残念で、ハーンの精緻なボウイングと麗しく照り輝く高音を目の当たりにされてはバトヤーも出る幕はなく「これはちょっとヤバい」と焦ったはずだ。

sv0029d.jpg聴きどころは、トゥッティ主題の繰り返しのあとに、ソロ主題を華麗に展開する50小節。独奏パートは8分音符と16分音符の分散和音を交互に織り上げてゆくが、トゥッティを挟んで交代する58小節など、どちらが第1でどちらが第2かまったくわからぬ緊密ぶりで、互いが絶妙の呼吸でピタリと寄り添いながら主題を紡いでゆくところの高度でプロフェッショナルな技に思わず唸ってしまう。

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16分音符の筆勢の強さではバトヤーがハーンに勝るとも劣らぬ弓さばきで主張しつつも、ここ一番でさりげなく脇役にまわり、ハーンの細やかなニュアンスに彩られたなめらかな高音を下の声部でしっかりと支えて調和させているあたりは芸格の高さを感じさせる。ソロ主題の再現は、調子の上がってきたバトヤーが、ハーンの独奏を意図的に模倣するかのようなフレージングによって、抜群の存在感を示している。


第2楽章 ラルゴ・マ・ノン・トロッポ
sv0029e.jpgラルゴは、バッハの創作した最も美しい楽章のひとつに数えられ、「この切々と胸を打つ名旋律は、一度耳にしたら生涯忘れることは出来ないであろう。」(志鳥栄八郎氏による)

この名旋律を、ハーンは歌謡性をたっぷり生かして微風のように清冽に歌い上げる。伸びやかに澄んだ気高い歌の美しさはハーンならではの魅力といってよく、いつ果てるとも知れぬ綿々とした流れの中に哀愁をしっとりと漂わせているところは、ハーンの底知れぬ音楽性を示してあますところがない。
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やや低い声部を模倣的に受け持つバトヤーの第2ヴァイオリンは、いくぶん潤いには欠けるが、ほどよきバランスでハーンと調和しながら、しっとりと対話を重ねるように歌い込んでゆくところが聴きどころだろう。主題の再現(10小節)から、ハーンが16分音符の分散和音に艶をのせて麗しく歌い回すところの美しさといったら! 

sv0029f.jpg最高音にリテヌートをかけて、濡れたように歌い上げる“ヒラリー節”のテンポのこまやかな揺らぎもたまらない魅力で、エピソード的に挿入される間奏風の旋律(16小節)の低音部の深味のある音や、第2主題(17小節)の熟れた官能の臭いが立ちこめるような温もりのある歌と、高音部の磨き抜かれた美音もハーンの真骨頂。

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中間部(24小節)は、16分音符の綾を交互に織り上げる中を飛翔するフレーズの稟とした味わいも格別で、音に溺れることなく、適度に抑制されたヴィブラートを用いて、バッハの核心に真摯に迫ろうとするハーンの楽の音は詩的な情緒に溢れんばかり。これ見よがしにヴィブラートを多用し、甘い香りをまき散らすキザなハイフェッツ盤を聴き慣れた耳には汚れのない清新な味わいがあり、そこはかとない哀しみが淑やかに綴られる結尾も涙ものである。


第3楽章 アレグロ
sv0029g.jpg独奏ヴァイオリンの妙技を心ゆくまで堪能させてくれるのがアレグロの音楽だ。ストレッタされたカノン形式によって、2台の独奏楽器が目まぐるしい勢いで、追いつ追われつの強奏展開をするところは聴き手をゾクゾクさせてくれる。

ここではハイフェッツのテンポを遙かに凌ぐハーンの鋭い踏み込みに驚かされるが、均整のとれた造形をいささかも踏み外すことなく、「こんなものは屁のカッパ」といわんばかりに、「つん」とすまして裏拍から飛び出すフレーズをクールに決めるハーンの演奏を、あの世でハイフェッツが聴いたら地団駄を踏んで悔しがるに違いない。
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sv0029h.jpg第1、第2楽章ではハーンの妙技の影で脇役に甘んじていたバトヤーだが、ここでは一転して「こんな小娘に負けてたまるか」といわんばかりに、女の意地とプライドをかけて弾き飛ばすさまがスリリングの極みで、両者のとてつもない緊迫感が張り巡らされている。といっても殺伐とした女の闘いを繰り広げるわけではなく、ピタリと息の合った呼吸と冴えたテクニックによって、両者が生き生きと弾むように駆けるところは感興たっぷりだ。

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大きな聴きどころは、独奏パートの音型が完全に合一する41小節(および127小節)。7小節にわたって重音奏法で激しく和声を打ち続けるところは、いたずらに強圧的にならず、強弱をつけながら2人の独奏者が協調する中を、下の声部で第1主題をどっしりと聴かせるところは指揮者カヘインの腕の見せどころだろう。

sv0029i.jpg再現とトゥッティの後に、大バッハはもうひとつのご馳走を用意する。第1ヴァイオリンが16音符の分散和音で揺れ動く中から 第3主題ともいうべき伸びやかな旋律が第2ヴァイオリンによって歌われるが、これをバトヤーとハーンが交互に歌い合い、一方が華麗な分散和音で闊達に舞うところの溌剌としたリズム感覚が聴き手の耳を刺激する。

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「このアルバムを聴きながら、みなさんもゆっくりとした楽章では旋律を口ずさみ、速い楽章では爪先で床を鳴らし、曲に合わせて踊っていただけたら、(もちろん自分の家で、ですが)、幸いです。どうぞ、私たちとご一緒に! きっとバッハも喜ぶと思います。」(ヒラリー・ハーン)


ストレッタの第1主題のあとに現れる3連音を絡めた楽節を、いささかの迷いもなく勢いよく上り詰め、力強い全合奏で全曲を爽やかに締め括っている。一点の濁りもない精緻なポリフォニーを堪能させてくれるスタイリッシュな《ドッペル》だ。


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[ 2014/11/30 ] 音楽 J.S.バッハ | TB(-) | CM(-)