ベルナルト・ハイティンク指揮 シカゴ交響楽団
ロバート・チェン(ソロ・ヴァイオリン)
2009年1月31日18時開演、横浜みなとみらいホール
Mozart:Symphony No.41 C-major K.551 "Jupiter"
Richard Strauss:Tondichting für groses Orchester "Ein Heldenleben" Op.40
Bernard Haitink, Principal Conductor
Chicago Symphony Orchestra
2009.1.31 18:00 Yokohama Minato Mirai Hall
演奏★★★★★ 音響★★★★ [評価★が2点、☆が1点の10点満点]
お気に入りのCDや海外のライブ録音を気ままに紹介する Musikfreund(ムジークフロイント)。本日は、ベルナルト・ハイティンク指揮、シカゴ交響楽団の来日公演から横浜みなとみらいホールでの演奏を聴く。

ハイティンクが2006年より首席指揮者をつとめるシカゴ交響楽団が来日した。今回はマーラー交響曲第6番「悲劇的」、ブルックナー交響曲第7番、リヒャルト・シュトラウス交響詩「英雄の生涯」といったヴィルトゥオーゾ・オーケストラにふさわしい看板曲を引っ提げての公演だ。東京地区のみでわずか4回のコンサートしか行われないが、横浜はその初日の演奏会。会場はほぼ満席に近い入りである。
筆者がシカゴ交響楽団を生で聴くのは1977年ショルティ指揮(マーラー交響曲第5番)、2003年バレンボイム指揮(マーラー交響曲第9番)に続いて3度目。ハイティンクを聴くのは1977年コンセルトヘボウ管(マーラー交響曲第4番)、2004年シュターツカペレ・ドレスデン(ブルックナー交響曲第8番)に続いて3度目となる。
世界最高のオーケストラであるシカゴ交響楽団は前回の来日公演からはや6年がたった。米国ではプログラム内容の不人気、固定化した演奏家や客層によって定期会員が減少して赤字経営に陥ったという。GMの交代劇に続いてバレンボイムが音楽監督の契約を延長せず、ベルナルト・ハイティンクが継投することになった。
今回のハイティンクは音楽監督ではなく首席指揮者という立場での公演。首席指揮者(プリンシパル・コンダクター)とは楽団の企画や運営にはタッチせず、年間に6週間ほどシカゴに滞在するというものであるが、2010年のシーズンよりリッカルド・ムーティが第10代の音楽監督に就任することがすでに報じられている。

ベルナルト・ハイティンクはオランダ人の指揮者で、1961年に前任のベイヌムの急死の後を受けて弱冠32歳でオイゲン・ヨッフムを補佐に据えてコンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者に抜擢された。その後四半世紀以上もの長きわたってコンセルトヘボウとともに歩んだハイティンクであるが、スター性のない職人気質と地味なスタイルの演奏は日本では評価が高いとは言えなかった。しかし年を重ねるにつれてその芸風は円熟味を増し、いわゆる遅咲きの巨匠といってよい。
「彼は若くしてアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者になったんです。メンゲルベルクの後を受けて、後任になったベイヌムが早死にした。そこで、人材がいなかったものだから仕方なくハイティンクを常任にした。オーケストラがオランダ人を指揮者にしたかったんでしょうね、ヨッフムを後見人のようなポジションに任命して、ハイティンクを育てようとしたんだと思います。変なシステムですね、ようするにハイティンクをぜんぜん信用していないんですよ。終演後、知り合いがぼくを、ハイティンクに会わせるというので、嫌々楽屋に行ったんだけど、〈ひどいですねえ〉ともいえないから〈コングラチュレンションズ〉といったら、〈サンキュー〉と答えていましたよ。あの日の楽屋での顔が忘れられないなあ。」 (
『宇野功芳の白熱のCD談義ウィーンフィルハーモニー』 ブックマン社、2002年)
「もちろん、演奏に接しなくても、ハイティンクのあの顔を見ればもおよそどのような指揮をする人であるは一目瞭然なのだが、一言で評せば〈軟弱の極み〉であり、〈愚鈍のかたまり〉であるといえよう。聴いていて、精神がだれ切ってしまうような凡演、それがハイティンクのブルックナーなのである。厳しさのまるでない、生ぬるい演奏。無意味な弱音効果が、音楽をきわめてつまらないものにしている。あまりの愚鈍さにねむくなってしまう。」
(宇野功芳著 『モーツァルトとブルックナー』 より、星雲社、1984年)
「ハイティンクの美点は音楽の横の流れと縦の響きの双方における傑出したバランス感覚だが、とりわけ優れているのが、アンサンブルを整えオーケストラを美しく響かせる能力である。この面でのハイティンクの力量は、相手がどんなオーケストラであっても同質の響き、各楽器の音色がまろやかに溶け合ったコクのある響きを巧みに引き出せる、ということからも証明できる。彼はそうした響きの理想を長年にわたるコンセルトヘボウとの共同作業の中で培った。音楽の愉悦が馥郁と香り、それ以外の夾雑物は何もない。こうした演奏をもし〈個性がなく〉〈平凡〉と感じるならぱ、その人はたぶん演奏から音楽以外の何かを聴こうとしているのである。」 (
吉成順氏による 『200CD指揮者とオーケストラ』 より、立風書房、1995年)
本日のオーケストラの配置は右手の前にチェロ、その後ろにコントラバスを配置するアメリカ式の配列で、オーディオ・システムで再生する音と寸分違わぬ重量感溢れるパワフルなサウンドを目の前でたっぷりと楽しめることが期待出来る。
シカゴ交響楽団と言えば、管楽器の首席奏者にウルトラ級の名手を揃えているのは言うまでもないが、トップ奏者たちの在籍期間が長いのが大きな特徴だ。トランペットの神様アドルフ・ハーゼスの53年は別格としても、ホルンの神様デイル・クレヴェンジャー、ダニエル・ギングリッチ、トロンボーンのジェイ・フリードマン、コントラバスのジョセフ・ガスタフェストは今回の公演でも健在である。
「僕も43年になります」(Dale Clevenger)アメリカのオーケストラの首席にはかつての名誉首席奏者の名が冠に付くことが多い。アドルフ・ハーゼス・チェアのクリストファー・マーティン(トランペット)、アーノルド・ジェイコブズ・チェアのジーン・ポコーニー(チューバ)といった具合。そしてマチュー・デュフォー(フルート)、ユージン・イゾトフ(オーボエ)、スザンナ・ドレイク(ホルン)といった新たな名手たちが加わったシカゴ響の布陣は強力でスキがない。
これに対して弦楽セクションは東洋系のプレイヤーが多いのが特徴だ。台湾出身のロバート・チェン(コンサート・マスター)を筆頭に、セカンド・ヴァンオリン、ヴィオラのトップサイドをはじめとする東洋系の名手たちが鎮座する。

モーツァルト 交響曲第41番ハ長調K551「ジュピター」冒頭主題の3連符がズシリと重みのある音で開始する。重厚なシカゴ・サウンドが残響たっぷりにホールに響く。第1主題は遅めのテンポで実直な音楽運びだ。7小節目のアウフタクトでテンポを少し落として細やかな味わいを深めている。柔らかく、まろやかにブレンドされたコクのある弦楽の味わいは従来のシカゴ響からは決して聴けなかったもので、セカンド・ヴァイオリン、ヴィオラの内声が非常に充実している。
筆者の目の前に立ち並ぶ6挺のチェロ、4挺のコントラバスという12型と思われる編成からは信じられぬ厚味のあるサウンドが繰り広げられるのが驚きだ。第2楽章第1主題のコントラバスのエコーなど、ザラリとした量感は並々ならぬもので、モーツァルトがまるでリヒャルト・シュトラウスの音楽のように聞こえてくる。
しかし、ここ一番でねじ伏せるような力感や強いアインザッツが音響的にメリハリ感を与える一方で、第2主題などはモーツァルトの軽妙洒脱な音楽がやや遠いものになってしまう感がある。ティンパニなど、びりびりと響き過ぎで耳障りな部分さえでてしまう。第3楽章のトリオもいささか力み過ぎだ。68小節のフォルテ主題など音楽が異常に力強い。コントサート・マスターのロバート・チェンが両足を大きく広げて勇ましく弾く姿からは、筆者は横綱の朝青龍を連想してしまう。
聴きどころはアンダンテ楽章であろう。19小節でオーボエとファゴットで歌われる哀切の経過主題は音楽がとても悲しい。満面に悲しみを湛えつつも優しさと温もりが滲み出てくるあたりは、音楽を丁寧にじっくり聴かせるハイティンクの手腕が光っている。木管楽器のデリケートなニュアンスも特筆モノだ。第3楽章再提示部で歯切れ良く歌うオーボエ、これに重ね合わせるファゴットのオブリガートが味わいを深めている。

何といっても最高に素晴らしかったのが第4楽章だ。複雑なフガートによる主題を絶妙のアンサンブルで聴かせてくれる。ヴィオラ以下の16音符の後打ちの凄まじさ、20小節の重畳ユニゾンのダイナミックな音楽は想像を絶するものだ。セカンド・ヴァイオリンから始まる36小節提示部のフーガの、ファースト・ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの順に主題がやわらかく受け渡されるところの上手いこと!
ハイティンクは早いテンポで、時には左手の拳を震わせてジュピター交響曲をドラマチックに盛り上げるが、細かい表情にも神経が十分に行き届いた巧妙な棒さばきだ。そして長大なコーダを劇的に盛り上げるホルンがたっぷりと鳴り響く(372小節)と感興は頂点に達する。モーツァルトはシカゴ響でなくては、と思わせるに充分な名演奏に「ブラボー」が飛び出すほどの大きな感動を聴き手に与えてくれたのである。
リヒャルト・シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」作品40
フル編成のオーケストラが舞台に現れると大男の多いシカゴ交響楽団は見るだけてたいそう迫力がある。冒頭のチェロ・バスの信じられないような「ズーン」という重低音とともに〈英雄〉の雄渾な主題が変ホ長調で力強く奏でられる。総奏では弾けるようなブリリアントなシカゴ響のブラスがホールいっぱいに鳴り渡り、76小節で最高の頂点をむかえるとクレヴェンジャー等のホルンの一団が3連符の主題を雄大に吹き放つところは圧巻である!〈英雄の敵〉から浴びせられる嘲笑や皮肉たっぷりの罵詈雑言は、木管の綾なすハーモニーの美しさがひときわ光る。137小節の英雄の悲嘆でたっぶりとうねるチェロバスは、座席の一部が「びりびり」と振動するほど響きわたり、妖艶なセカンド・ヴァイオリンとヴィオラの調べも聴き応え充分だ。
〈英雄の妻〉ではドスの効いた低弦(夫)とヴィブラートをたっぷりかけた甘いソロ・ヴァイオリン(妻パウリーネ)の極端な対比がとても面白い。切れ味するどくピッツィカートが打たれるとヴァイオリン・ソロが情熱的に主題を歌う。288小節でオーケストラの総奏にハープが絡むと名場面がやってくる。精妙な弦楽器が大きく揺れる愛の場面は最高の聴きどころだ。
ロバート・チェンのソロ・ヴァイオリンは女性的な色気をたっぷりと漂わせながら、指板を柔らかく滑らせて絶妙のグリッサンドを聴かせてくれる。328小節(練習番号38)では官能的な愛のクライマックスをむかえるが、ハイティンクの的確な棒がこの名場面をロマンティックに演出する。その音楽はとてもやさしい。馥郁たるホルンのエコーがこれに彩りを添えている。
〈英雄の戦場〉はまさにマッシヴなシカゴ響の独壇場だ。舞台ウラから戦いの時を告げる3本のラッパが聞こえてくると、大柄なパトリシア・ダッシュ女史(パーカッション)がすっくと立ち上がり、壮絶な戦闘へと突入する。ドラムがバカスカ打ち込まれ、泣く子も黙るシカゴ響の大軍団の進軍だ! 大きく吠えるホルン、これでもかと華やかに打たれるトランペットは気分充分だ。
妻の狂気のワルツで揺れ踊る騎馬弦団を率いるロバート・チェンの豪快な弓さばきも見応えがある。そして情け容赦なく打ち込むパトリシア女史の大太鼓に止めを刺す。皮を突き破り、穴が空くのではないかと思われるほどの豪腕ぶりを発揮し、舞台を制圧してしまう。それにしてもシカゴ響の圧倒的なパワーは聴く者を震撼させ、この世のものとは思えぬ凄まじさである。
太鼓一発ですでに敵を制圧してしまった感があるが、 〈英雄〉のテーマが再現する部分ではハイティンクの音楽がとても熱い。アクセントを入れた2分音符を大きく引きつけて主題に突入し、トランペットとセカンド・ヴァイオリンに勝利の歌を開放的に打たせるところは圧巻である。 〈ドン・ファン〉の主題が4本のホルンで奏でる場面はシカゴ響ならではのパンチの効いた迫力があるものの、いつものオパケのような誇張は鳴りを潜め、オーケストラにとけ込ませた成熟した大人の音楽を聴かせてくれるのである。

〈英雄の業績〉では作曲者のこれまでの作品が次々と回想されるが、安らぎに満ちた音楽が美しい木管の調べによってしみじみと語られる。チェロとヴァイオリンのソロにハープが絡む〈ドン・キホーテ〉の冒頭の動機やオーボエによる〈ドン・ファン〉の動機が現われ、妻の動機が回想されると潤いのある音楽がしっとりと奏でられる。
〈英雄の引退と完成〉においてはホルンにのって、絶妙の呼吸で開始する弦楽器の美しい調べ(853小節)には思わず目頭が熱くなってしまう。ハイティンクの魔法のようなタクトが筋肉質のシカゴ・サウンドをまろやかに解きほぐし、これまでの指揮者自身の人生を回顧するかのように、ゆったりと1音1音を噛みしめて奏でる音楽は涙ものだ。そして〈英雄の妻〉が回想されると日没の最後の輝きとともに死者へのフォルティシモの弔奏が残響となり、ホールにその余韻がいつまでも響いている。
演奏後は各首席奏者にねぎらいの言葉をかけるハイティンク。名手たちの表情からは79歳の首席指揮者への確かな信頼が客席にも伝わってくる。「今日はアンコールなしで勘弁してください」と誠意を込めて伝えようとするハイティンクに、聴衆の微笑みと暖かな拍手が続いたのである。

◆シカゴ交響楽団の「英雄の生涯」のCDを聴く





『宇野功芳の白熱のCD談義ウィーンフィルハーモニー』 ブックマン社、2002年)





