フルトヴェングラーのハイドン/交響曲第88番 「V字」

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ハイドン/交響曲第88番ト長調 「V字」Hob.Ⅰ-88
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
Recording: 1951.12.5, Jesus-christus-Kirche, Berlin
Recording Producer: Freid Hammel (DG)
Balance Engineer: Heinrich Keilholz
Length: 21:04 (Mono) Olsen No.269
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オールセンによると、現存するフルトヴェングラーによる《V字》の演奏は3種の録音が残されている。その中では、イエス・キリスト教会で収録されたスタジオ録音のベルリンフィル盤が録音条件もよく、オーケストラの質の高さからいっても第1にチョイスすべきもので、格調が高く、崇高さすら漂わせる屈指の名演奏だ。

戦後のドイツ・グラモフォンでは、磁気テープを使った録音が行われていたが、《V字》は当初からセッションの予定が組まれていたものではなく、シューベルト《グレイト》を録り終えて時間が余ったことから、急遽、曲が選ばれ、リハーサルなしのぶっつけ本番で録音されることになったという。

「ドイツ・グラモフォンのために長大な《ハ長調交響曲》を入れた後、時間が余ることになりました。万事順調に運んだ後だったので、気をよくしていた指揮者と楽員たちは、残った時間で何をやろうかということを考えました。といってもすぐに始めるわけにはいかず、楽譜と演奏用のパート譜などをまず取り寄せることが必要でした。そのため練習なしで交響曲は演奏され、録音されました。これもまた幸運の産物でした。このハイドン交響曲こそ名盤の1つとなったのですから。」 エリーザベト・フルトヴェングラー著『回想のフルトヴェングラー』より、仙北谷晃一訳、白水社、1982年)



sv0010b.jpgセッションでは、例によって巨匠が震えるように指揮棒を振り下ろすと、冒頭のフォルテの和音打撃が揃わずにオーケストラが雪崩れ込んだ。すると赤ランプがついて、録音ディレクターが「マエストロ、スタートが揃わなかったのでもう一度お願いします」と、これが繰り返されること3度。

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業を煮やした巨匠は、ディレクターを呼びつけるや一喝、「おまえ、指揮しろ!」。真っ青なディレクターは「め、めっそうもありません・・・」。「ならば貴様に言い渡そう、今から第4楽章までぶっ通しでやるから、十分な録音テープを用意しておくことだ。どんなことがあろうと演奏は止めんぞ。いいか、チャンスは1度きりだ!」

「フルトヴェングラーは、終始、スタジオでは絶対的存在でした。ひたすら、目的に向かって突き進むあの態度は、実に印象的でした。当時はまだ新しかったテープ録音を利用して、一区切りつくまで、小さな間違いは委細かまわず演奏を続けたのです。誰かが思考の連続性を妨げるようなことをしたら最後、彼はもうがまんができませんでした。」 エリーザベト・フルトヴェングラー著『回想のフルトヴェングラー』より、同上)


「テープが発明されてから、録音はこま切れになり、同じところをイヤになるほどやり直すこともあり、そうした録音法にうんざりしていたベルリン・フィルの連中は、このフルトヴェングラーの裁定に、みな胸のつかえを一気に吐き出したような気持ちになった。こうしてハイドンの《V字》シンフォニーは取り直しなしに一気に演奏されて終わりになった。」 石井宏著「ベルリン・フィルで活躍したトップ・プレイヤーたち」より、~『ウィーン・フィル&ベルリン・フィル』、オントモムック、1996年)


sv0010h.jpgこの時のハイドン《V字》こそが、ベルリンフィルの最高の演奏になったと、フルトヴェグラーに請われて入団し、首席フルート奏者(1950~59)をつとめたオーレル・ニコレは述懐している。

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「フルトヴェングラーの古典への姿勢を端的に表した興味深い演奏である。フルトヴェングラーが根っからのロマンティストであったことをうがかわせる陰影の濃い、ロマンな情念を秘めた音楽で、第2楽章はきわめておそいテンポと引きずるようなリズムを基本としているが、それがまた歌のゆたかさにもつながっている。全体が堂々とした風格と格調の高さに支えられた名演である。」 小石忠男氏による月評より、MG6018、『レコード芸術』通巻第356号、音楽之友社、1980年)



第1楽章 アダージョ-アレグロ
sv0010c.jpg数多いハイドンの交響曲の中で、フルトヴェングラーが好んで取り上げたのが《V字》である。戦後の演奏回数が10回、これは《時計》の16回に次いで多く、いわば巨匠のオハコといえる。曲がシンプルで完成度が高く、生き生きとした楽想を器楽的に展開する面白さといった点で、演奏家が触手を伸ばしたくなるシンフォニーだ。


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微妙なズレをともなう粘り気のあるアインザッツは、まぎれもなくフルトヴェングラーの揺れる棒から導き出されるもので、深淵な和音の響きから、厳粛な気分と来たる主部への大きな期待がおのずと湧き出るスケール感は、まさしく巨匠の音楽である。

アレグロの主部は、みずみずしく駆け走るベルリンフィルの緻密なアンサンブルに魅了させられる。機械的にキメが整えられたフレージングとは異なり、うねるような流動感を伴うところはフルベンの面目躍如といってよく、腰の重いウィーンフィルに比べればベルリンフィルは反応がよく、抜群の機動力を備えている。
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分散和音のゼクエンツをぐいぐい弾き回す分厚い弦楽サウンドに、冴えたアーティキュレーションを配する巨匠の棒さばきは絶妙の極みで、スタッカート句16分音符の分散和音が目まぐるしく交錯する小結尾(85小節)の、ツボにはまったような力強い躍動感は圧巻である![提示部の反復あり]

sv0010d.jpg展開部(104小節)は、第1主題の断片を執拗に繰り返して展開する器楽演奏の神髄を堪能させてくれる。フレーズがいとも自然に沸き上がる対位法のなめらかな処理もさることながら、それらが有機的な繋がりを持ち、内声の第2主題を第1主題に緻密に織り重ねるアンサンブルの妙技は、この楽団の自家薬籠中のもので、リハーサルなしでこれほど質の高い演奏をやってのけるところに快哉を叫びたくなる。

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再現部(179小節)は第1主題に高貴なオブリガート・フルートの装飾がくわわって、すべり込むような切分音や切れのある裏打ちの弦が、冴え冴えとしたサウンドを響かせる。コーダ(247小節)は怒りの静まった巨匠が肩の力をぬいたように、管弦がやわらかく呼び交わす終止打撃が気持ちよく響き、芸格の高さを示してあますところがない。


第2楽章 ラルゴ
オーボエとチェロの独奏が奏でるユニゾンの主題は、賛美歌「すべての恵みを垂れ給ふ神を讃える」から採られたものだ。ここでチェロを弾くのは、前シーズンにブラジル交響楽団から移籍した第1ソリストのエーバーハルト・フィンケ(1950~85年在籍)だろうか。巨匠が哲学的な瞑想にふけるかのように、深沈とした弦の響きが印象的である。

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「フルトヴェングラーは技術的なことはうるさく言わなかった。それぞれの楽器グループに任せてしまっていた。そして、ソロの奏者には自由を与えた。オーボエであろうが、チェロであろうが、ソロのパートにはほとんど口を出さなかった。フルトヴェングラーが決定したのは、テンポであり、フレーズのつなぎの部分。満足できないときは、怒ったりせず、〈もっと上手くいったときがあった〉という表現をしていましたね。(フィンケ)」 川口マーン恵美著『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』より、新潮社、2008年)


sv0010e.jpg繰り返し歌われる主題は気分が少し高まるが、心に沁み込むような第2楽句、しっとりと歌うオーボエに弦の合いの手を絡める第1変奏、フルートと第1ヴァイオリンが崇高に歌い上げる第2変奏はもとより、とくにオーボエのメロディーに弦が絶妙の32音符のオブリガートを滑り込ませる第3変奏は神技といえるもので、高貴なファンタジーが滔々と溢れ出る巨匠の霊感は尽きることがない。

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弦の仄暗い響きで転調する第4変奏もすこぶる感動的で、小鳥の模声で彩る第5変奏も気分はウェットである。峻厳と打ち込まれるフォルティシモの闖入は、強音がしっかりと打ち込まれ、暗い淵をのぞき込むように、モーツァルト風の深淵な響きによって聴き手の襟を正す厳粛さをも漂わせている。


第3楽章 メヌエットーアレグレット
どっしりと力強くさばくメヌエットは安定感があり、リズムがしなやかに息づいている。装飾音を弾き切った後にもったりと間延びするウィーンフィルに比べ、べルリンフィルのフレージングにはスピードと切れがある。レントラー風のトリオはト短調で暗い影を付けながら、スタッカート&クレッシェンドで劇的に盛り上げるところがいかにも巨匠風。


第4楽章 フィナーレ、アレグロ・コン・スピーリト
sv0010f.jpg緻密なスタッカートでさばく第1主題は落ち着きのある進行で、力瘤を入れずに楽々と弾んでゆくが、低音弦のつよいリズムが支えになって、次第にダイナミックさを増していくところがフルベン流だ。とくにSACDは、ステレオ録音を思わせるシャッキリと鮮やかな響きで、従来のCDとは格の違いを感じさせてくれる。

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繰り返しをぬけて第1主題が発展する走句(33小節)から、いよいよ巨匠が目覚めたかのように力ワザを開陳する。分散和音をぐいぐい弾きとばす凄腕の弦楽集団に唖然とするが、ニ短調で翳りを付けた後に、「ここぞ」とばかりに躍り出る第2主題の走句(66小節)と猛烈な勢いで畳み込むコデッタ(小結尾)の決めどころの猛々しさは“弾丸ライナー”と双璧で、期待に違わぬフルベンの荒ワザを堪能させてくれる。
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sv0010g.jpg第1主題をフガート変奏する展開部(84小節)は、造形をいささかも崩さぬ巨匠の確固たる信念が伝わってくる。ト短調に転調するや、弦の深いフレージングと律動的なリズムを配して整然と彫琢するさまは、ジュピター交響曲(モーツァルト)を思わせる荘厳さがあり、神韻縹渺たる世界へ聴き手をいざなう巨匠の奥義を堪能させてくれる。

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シャッキリと打ち響く和音打撃のフェルマータ終止のあとに現れる第2主題の再現(195小節)は、強いティンパニの叩き込みに反応するかのようにオーケストラがはっしと走り出す。背筋がゾクゾクするようなアッチェレランドはフルベンならではの“必殺ワザ”で、軋むようなリズミックな分散和音と、コーダ(209小節)の威風堂々たる力強い終止打撃が巨匠の風格を伝えてあますところがない。

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[ 2014/05/06 ] 音楽 ハイドン | TB(-) | CM(-)