クレンペラーのモーツァルト/交響曲第25番ト短調

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モーツァルト/交響曲第25番ト短調 K183
オットー・クレンペラー指揮
フィルハーモニア管弦楽団
Recording: 1956.7.19,21-24 Kingsway Hall, London
Producer: Walter Legge (EMI)
Balance Engineer: Douglas Larter
Length: 19:01 (Stereo)
amazon [TOCE-91058]


クレンペラーがEMIと専属契約を結んで膨大なレコーディングがはじまったのは、フィルハーモニア管の首席指揮者に任命された70歳のときで、それまで剛直一本やりだった即物的な芸風に霊感が加わり、長老のような威厳が備わってきた時期にあたる。

sv0118b.jpgクレンペラーの商業録音は1972年(87歳)まで続けられたが、最初のセッションは1954年10月で、モーツァルトの交響曲(第29番と第40番)が含まれていた。

「私が尊敬する作曲家はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンである」と語るように、モーツァルトはクレンペラーの重要なレパートリーのひとつで、この第25番はステレオ初期のテイクにあたる。
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クレンペラーの録音は、響きがしっかりした60年前後の録音に優れた演奏が多いといわれるが、荘厳な響きの中に聴き手を引きずり込み、深い精神性と力強い生命力を聴き手に厳格に呈示する。緊迫した悲劇性を貫きながら、雄大に、黙々と、半ば怒りを込めたように突き進む姿は異様であり、恐ろしくもある。

「総括的な言い方だが、モーツァルトの交響曲は大家の棒で独自の生命に輝いている。こねこねと造ったレコード用の箱庭・盆栽芸術の趣がない。第31番のあまりの重さだけはちょっと首をかしげるが、いずれも直言と真実とが光っている。緩除楽章がやや渋い顔つきになるのはこの指揮者の屈折した内面がときおり頭をもたげるためであろう。クレンペラーの指揮ではどれひとつとして音の美しさをごくふつうの意味で吹聴できるものがないが、モーツァルトでもやはりそうで、往々かなりの不揃いさえそのまま残されたところがある。しかし、このモーツァルトは傷つかない。これらは本当に強い命をもつモーツァルトである。」 大木正興氏による月評より、EAC4044、『レコード芸術』通巻第317号、音楽之友社、1977年)


「巨大な生物が動くときに感じる特別なものの気配、圧倒的な風圧のようなものを、モーツァルトの演奏で聴くことはめったにない。クレンペラーが指揮した交響曲の演奏では、そのめったにないことが生じている。ここに聴くのは、高い場所から俯瞰され、スケール雄大に再現されたモーツァルトだ。常識的なモーツァルトからするとかなり桁外れなところがあるが、ここらか得るもの、魅力などもまた桁外れに大きい。」 吉井亜彦氏による月評より、TOCE13201、『レコード芸術』通巻第664号、音楽之友社、2006年)


「モーツァルトのシンフォニーに、狂気は殊更には用意されていない。旋律線も、バッハほどには犠牲にされず、厳粛厳格ではあるがそこには確かにモーツァルトの音楽がある。ただここには微笑みも、快楽も、音の喜びも存在しない。抑えられた色彩のパレットから繰り出されるのはいわば裸のモーツァルトである。25番や40番のト短調交響曲は曲の性格もあってか厳しい音楽になっている。」 宮下誠著『カラヤンがクラシックを殺した』より、光文社、2008年)




第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ ト短調
sv0118c.jpg気魄を込めた強いシンコペーション・リズムは緊迫感に充ちたもので、のっけから阿修羅のごとき闘争の世界をクレンペラーは創出する。

悲嘆にくれたオーボエは哀愁たっぷりで、“ウォルター・レッグのロイヤル・フラッシュ”と称えられた木管セクションの音色の美しさにと酔わされてしまう。
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聴きどころはリズム動機が現れる31小節から。ステレオ録音を“いかさま師の発明”とこき下ろしたクレンペラーだが、左右に分かれたヴァイオリン群が音階的なトレモロとシンコペーションを交互にぶつけながら、低音弦のリズム動機と激しく対峙する場面は分離の良さと相まって、ゾクゾクするような興奮を誘っている。嵐のようなユニゾンの下降トレモロもギシギシと軋みをたてる凄まじさ!

sv0118d.jpgスケルツァンドの第2主題(59小節)は、装飾音の付いた4分音符を8分音符2つで弾いているのには仰天するが、コケットリーな舞踏的主題がクレンペラーの手にかかると孤独な修行僧が岩だらけの山道を黙々と、怒りを込めながら、急ぎ足で歩む姿が浮かんでくる。

ことさら甘美な響きや優美な表現を求めず、“死の行進”のごとく、厳めしくザハリッヒに進行するのがいかにもクレンペラーらしい。(呈示部の反復あり)
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「クレンペラーは常に怒っている。思うようにセーブできない自分の欲望に対して、そして下らない聴衆のあまりに浅い音楽理解に対して、或いは“大衆”の小市民主義的安穏に対して、更には時代の暗澹たる進み行きに対して、彼は常に怒りをもって立ち向かった。彼の知的で明敏な感受性は時代の不幸と絶望を見抜いている。それは音楽の力でどうにか組み伏せ、束の間とはいえ、より良き世界を夢見るのだ。」 宮下誠著『カラヤンがクラシックを殺した』より、光文社、2008年)


sv0118e.jpg展開部(83小節)は、押し出しの強さと武骨さを打ち出して雄々しく進行する。オーボエが苦しみに喘ぎ(103小節)、弦楽が慟哭の表情を刻印してゆく場面(109小節)は悲劇のドラマが極まった感があろう。

泣き笑いの表情で歌い出すト短調の第2主題(177小節)も「これぞ男の進む道」といわんばかりに自らを鞭打ち、駆り立てながら、緊張の糸が最後まで途切れることがない。
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「クレンペラーの音楽は重厚だが鈍重ではない。リズムは踏みしめられるが、弾力がある。響きは鋭利ではないが、歯切れがよい。そのバランスは独特で、木管が前面に押し出される。金管は明確だが抑制される。弦楽器群は黒樫の木組のように立体的にしっかりと支える。このバランスがクレンペラーならではの魅力で、当時のフィルハーモニアはその意図を見事に体現していた。」 山崎浩太郎著「クレンペラーの晩年を飾った腕利きオーケストラとの蜜月」より~『レコード芸術』通巻第630号、音楽之友社、2003年)



第2楽章 アンダンテ 変ホ長調
sv0118f.jpg弦楽とファゴットの重奏によって、禅問答のような対話を重ねる主題はすこぶる厳粛で、老師クレンペラーは「人は何故苦しむのか」という命題を我々に問いかける。

雅やかに弾む第2主題もどこか照れ隠しのようで純真に喜びきれず、重々しく弓を入れる低音弦によって暗鬱の世界に聴き手を引きずり込む。転調で翳りを付ける展開部も陰鬱な気分が勝り、とめどもなく暗雲が垂れ込めてくる。
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sv0118h.jpg終止の厳かな低音弦は屁を放つような皮肉を込めた調子で、何かタチの悪い冗談のようにも聴こえてくる。そういえば、1968年ウィーン芸術週間のコンサートで《グラン・パルティータ》(モーツァルト)を演奏する時、クレンペラーが腰を下ろしたとたん「ぶ~」とおならが漏れた。

身体の不自由な老巨匠は開始の合図を送ることが出来なかったため、ファゴットが合図を出したと勘違いしたオーケストラが、“屁の合図”で一斉に華々しく演奏を始めたという“武勇伝”を想起させるではないか。
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「ここには音だけが“ただある”ために、モーツァルトの常軌を逸した天才が姿を現す。クレンペラーは何もしていないに等しいが、そのような無私の精神が却ってモーツァルトの異常さを浮き彫りにする。様式的にはロココなど薬にもしたくないぶっきらぼうさだが、そこからモーツァルトの栄光と挫折がゆくりなく現れる。」 宮下誠著『カラヤンがクラシックを殺した』より、同上)



第3楽章 メヌエット ト短調
sv0118g.jpgゆたかな音量と長めのフレージングによって、老巨匠は深い悲しみを太い筆致で織り上げる。コクのある内声をたっぷり響かせながら、古武士のような武骨さで実直に音の塊をぶつけてくるところは、固い岩肌を素手でよじ登る苦行のようだ。

トリオは、長閑な田園牧歌風の楽想の中に潜む“哀しみ”と“世の無常さ”を痛切に訴えかけてくるが、そこには気高い気分をも宿している。  amazon
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「彼の音楽は一聴、取り付く島がない。無愛想と言っても良いし、木で鼻を括ったような、と言っても同じことだ。聴衆への媚びもサーヴィスも絶無だから、聴く方は主体的に、創造的に聴かなければならない。だから疲れる。しかし、ひとたび耳を欹て、音の1つ1つを注意深く聴こうとすれば、そこには如何にも玄妙で神々しい音楽が立ち現れるのである。」 宮下誠著『カラヤンがクラシックを殺した』より、同上)



第4楽章 アレグロ ト短調
sv0118i.jpgメヌエット主題とよく似た悲劇的な楽想をクレンペラーは、大きな構えで悠然と捌いて突き進む。力強いシンコペーションや駆け込むような半音階進行は劇性たっぷりで、奇策や小手先の業を仕掛けることなく、ひた押しに押してゆくところは老巨匠の気魄が漲っている。

最大の聴きどころは展開部(77小節)で、フィルハーモニア管の腕利きの奏者たちがダイナミックな演奏を繰り広げる。
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腕は確かだが、フリーの契約奏者であったために帰属意識が薄く、個性に欠くといわれた同楽団だが、老巨匠の統率のもと、弦の半音階進行と同音反復進行の筆圧の強いフレージングと緊密なアンサンブルは圧巻で、内声の対位的進行を「がっつり」と弾き上げて、筋の通った骨の太い音楽が脈打っている。

「精密なスコアリーディングは怠りなく行いながら、いざそれを音楽的現象としてリアライズする、即ち演奏する際には、そのような基礎的なことは忘れ、いや横に置き、音楽の構造的核心に肉薄するような鋭さと、鉈で太い枝を断ち割るような乾坤一擲の大胆さと気迫で立ち向かう。その勢いが音楽に波紋を与え、荒削りの大理石のような圭角を生み出し、結果として魁偉なブロック建築がそそり立つのだ。これはアマチュアのオーケストラが、ごく希にだが、感動的な音楽を産み出すのに似ていなくもない。偉大なるアマチュアリズムと肉体的運動性のマイナスがクレンペラーの音楽に凄みと崇高さを与えるのだ。ここにも音楽の悪魔が身を潜めている。恐るべきことではある。」 宮下誠著『カラヤンがクラシックを殺した』より、同上)


sv0118j.jpg再現部(108小節)も張り詰めた緊迫感に揺るぎがない。
ト短調に転じた第2主題は今や悲しみを満面に湛え、切れの鋭い第2ヴァイオリンの内声リズムをくわえて、急き立てるようにフィナーレに向かって突き進む。

纏綿とした情念とやるせない怒りの中に崇高さが立ち上るのを聴け。老巨匠の棒さばきや恐るべし! 
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悲劇の楽想を厳粛に織り上げて、深い精神性と力強い生命力を示した一枚だ。


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[ 2018/07/14 ] 音楽 モーツァルト | TB(-) | CM(-)