クレンペラーのモーツァルト/アダージョとフーガ ハ短調 K546

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モーツァルト/アダージョとフーガ ハ短調 K546
オットー・クレンペラー指揮
フィルハーモニア管弦楽団
Recording:1956.3.27 Abbey Road No.1 Studio, London
Producer: Walter Legge (EMI)
Balance Engineer: Christopher Parker
Length: 8:37 (Stereo)
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《アダージョとフーガ》は、モーツァルトの中でも筆者が好んで聴く作品で、交響曲第39番の少しあとに書かれている。この作品は作曲者自身の手による《2台のクラヴィーアのためのフーガ》K426を弦楽合奏用に編曲し、新たに52小節のアダージョの序奏を書き加えたもので、モーツァルトの円熟期にふさわしい深遠な楽想と対位技法の粋を凝らした名作中の名作だ。

sv0126b.jpg筆者がこの曲をはじめて聴いたのは、『幸福』(Le Bonneur)というフランス映画。アニエス・ヴァルダ(Agnes Varda)という女流監督による1965年の作品で、テーマ音楽として使われたのが《アダージョとフーガ》である。木管アンサンブルのメイン・タイトルと弦楽合奏によるエンディングでは4声のフーガがじつに効果的に使われている。  HDマスター [DVD]

建具屋で仕事をする主人公フランソワは真面目を絵に描いたような人物で、従順な妻テレーズとの間に2人の幼い子どもがいる。ある日、町の郵便局で働く若い女性エミリーと愛し合うようになり、テレーズにエミリーのことを打ち明けてしまう。

妻と愛人を林檎の木にたとえ、その花のいずれも美しいと説く。フランソワがうたた寝から目が覚めると、テレーズの姿はなく・・・池の畔に溺死体となっていた。深まりゆく秋、テレーズになりかわって家族の一員となったエミリーは、お揃いのセーターを身に纏い、子どもを連れて、仲睦まじく手を取り合って森の中へ入ってゆく。

テレーズという女性など、はじめからこの世に存在しなかったかのように、弦楽合奏のフーガにのせてカメラは家族の姿を追い続けてゆく。音楽のみのラストシーンがどこか残酷で、身勝手な男の論理を糾弾しているかのようでもある・・・


sv0126c.jpgこの映画のラストシーンを思い起こさせ、聴き手を「ゾクッ」とさせる指揮者といえば、クレンペラーしかいない。音楽はしかめ面をしたように重苦しく、どこか取っつきにくい印象が付き纏う。

脳腫瘍による手足の麻痺、転倒による要骨複雑骨折、寝煙草による全身火傷によって幾度も再起が危ぶまれ、晩年には下半身不随にまでなったが不屈の精神によって楽壇に蘇ってきた。

「クレンペラーは、とんでもない奇人らしいですね。背も2メートルくらいあって馬鹿でかいし、腕力は強いし。若い頃のクレンペラーは速いテンポで、すかすかやっていた。もともと冷たい演奏が好きなんだよ。それが、パイプをくわえたまま眠って全身大やけどしたり、飛行機のタラップから落ちて骨折したり、最後には脳卒中になってしまって、今度は右手も利かなくなるし、口は動かないし、だんだん体が利かなくなってきてからが良くなった。速いテンポがとれなくなって、本来のすごいものが出てきたんじゃないか。最後の最後、半身付随で、座って指揮するようになってからが一番いい。」 『宇野功芳の白熱のCD談義ウィーンフィルハーモニー』より、ブックマン社、2002年)



sv0126a.jpgここで聴く《アダージョとフーガ》は、優雅な雰囲気など微塵もない。重腰の引きずるようなスタイルによって、深い闇の中へ有無を言わさず聴き手を引きずり込んでゆく。

苦悶、慟哭、嗚咽といった「死の淵」に立たたずむ人間の、ありとあらゆる苦悩をひとりで背負い込んだような絶望が迫り来る。見てはならないものを見てしまったときの、あの言葉にならない衝撃の刃を、老師は聴き手の胸に「ぐさり」と突き立てる。  amazon

sv0126d.jpgクレンペラーの対極にあるのがカラヤンで、豊かな低音弦の土台の上にバランスよく音を構築する。ぶっきら棒なクレンペラーと違って、上滑りする弦の柔らかさと滑らかさは耳あたりが良く、聴き手に媚びるようなレガートで均してゆく手練れた音楽運びは“カラヤン美学”の極地といえる。

しかし、そこから漂ってくるものは“空やん”にほかならず、「カラヤンは真実より美を優先する」(オットー・クレンペラー)  amazon

「“遅さ”や“重さ”で語られることが多いクレンペラーのモーツァルトだが、それは鈍重さや風通しの悪さとイコールではない。彼の傷ついた肉体が物理的な遅さを必要としたとしても、ここに収められた序曲や管弦楽曲に停滞はない。ゆったりとした呼吸の中で音楽は躍動し、管楽器を強調した独特なバランス構築が内在するドラマをむき出しにする。アルノンクールのような確信犯的ノイズの混入とも異なる、ぶっきらぼうな響きは好悪を分かつだろうが、いまも十分に刺激的なモーツァルト。」 矢澤孝樹氏による月評より、TOCE13204、『レコード芸術』通巻第664号、音楽之友社、2006年)


「容易に生理にオチてこない、のたりとしたテンポ、優美とは対局にある即物的なゴツゴツしたオーケストラの響かせ方、ほとんど仏頂面ともいっていい、けっして微笑まない音楽の表情。およそ人を楽しませようなどという“思いやり”とは無縁のモーツァルトで、これを聴いて心が浮き立つ人が一人でもいるのか、と思わせるほどだが、それでもどこか耳に引っかかって結局聴かされてしまう。何ともはや怪演である。では、その耳に引っかかるものの正体とは何だろうか。」 中野和雄氏による月評より、TOCE1574、『レコード芸術』通巻第533号、音楽之友社、1995年)



「アダージョ」 ハ短調 4分の3拍子
sv0118i.jpg付点音符と複付点音符の連続する荘重な序奏(ショスタコの第5番はこれを真似た)は、「ぐい」と弓を入れるところからただならぬ緊迫感に満ちている。低音弦の弓を深く入れ、引きずるように、なみなみと音を盛っているところに、のっけから満腹になってしまう。

引き裂くような弦の和音、おどろおどろしい伴奏刻みなど、「いったい何事がはじまるのか」といった風体である。
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ネットショップにコメントされていた「大きな岩を引きずっているような演奏」とはじつに上手く言ったもので、このアダージョは、まさしく「苦行」にほかならない。

悠揚とした足取りと引きずるような重いリズムの中からも、30小節では高弦の澄み切った響きを際立たせるあたりは、この老巨匠、只者ではあるまい。「シャッキリ」と響きわたる左右に振り分けたヴァイオリンも耳に新鮮で、滋味深い温もりが仄かに漂ってくるではないか。


「フーガ」 アレグロ ハ短調 4分の4拍子
sv0118j.jpg低音弦のものものしい足取り(弓をひっかく音すら聴こえる)で開始するフーガは太い筆致によって、巨象のごとく「のっしのっし」と歩んでゆく。

大股でつづく根太いヴィオラ、弓をべったりと寝かせて弾くヴァイオリンが重ね合わされていくところは、重厚な弦楽合奏の醍醐味を堪能させてくれる。老巨匠は小賢しく音量を加減したりせず、低音を礎にしたコクのある豊かな響きをどっしりと腰を据えて捌いてゆく。

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「クレンペラーは“全部の音を平等に聴こえるように”出してくる。で、それぞれの音に主張させます。彼の構成力や展開の雄大さは、音を全部正しく鳴らすための“手立て”で、“音そのものの素材”で聴かせる。だから媚びないんですよね。」 「我らクレンペラー党!」より喜多尾道冬氏による~『レコード芸術』通巻第655号、音楽之友社、2005年)


大きな聴きどころは、メロディーが展開する69小節から。ヴィオラ以下が「ガリガリ」とすさまじい音量で主張しているところが圧巻で、弓をたっぷり入れて深々と打ち込む低音弦がここでも大きくものをいう。

フィナーレに向かって「これでもか」と分厚い弦を重ね、次第に劇性を孕んで凄みを増してくるところはまぎれもなくクレンペラーの音楽だ。ここにはあざとい演出など微塵もない。最大のクライマックスは、159小節からはじまる16分音符のヴァイオリン群の分散和音。

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左右に分かれた弦がすさまじい勢いで「ギシギシ」鳴っているところに仰天するが、分散和音が中低弦に拡大し、ヴァイオリンがフーガ主題を「ぐいぐい」勇渾に上り詰める力強さは比類がない。とどめの重和音の打ち込みも凄絶で、老巨匠の棒さばきや“恐るべし”! 
底知れぬ深さと重みを感じさせる傾聴すべきモーツァルトだ。


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[ 2018/11/17 ] 音楽 モーツァルト | TB(-) | CM(-)