ワルターのハイドン/交響曲第88番《V字》

sv0024a.jpg
ハイドン/交響曲第88番ト長調 「V字」Hob.Ⅰ-88
ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団
Recording: 1960.3.2,4,6,8 (Sonny)
Location: American Legion Hall, Hollywood
Producer: Thomas Frost
Length: 21:35 (Stereo)
amazon  TOWER RECORDS  HMVicon


ワルター指揮の《V字》には懐かしい思い出がある。それは1970年代にCBSソニーが制作した「ワルター大全集/音のカタログ・25の記念碑」という宣伝用のLPをレコード店にもらった時のことだった。


sv0024l.jpgこのLPは、「ステレオ総集編」の中から曲のさわりの部分を詰め込んだものだったが、その音の良さとオケの上手さに筆者は飛び上がって驚いた。

筆者の学生時代は、ワルター=コロンビア響のCBSソニー盤は、カラヤン=ベルリンフィルやベーム=ウィーンフィルといったグラモフォン盤に比べて分が悪かった。

「コロンビア響って下手クソやろ。ワルターならモノラルのニューヨークフィルで聴くべきや」と友人からよく言われたが、ニューヨークのモノラル盤は想像していた以上に音が悪く、買って後悔した経験があった。

sv0024m.jpgところがコロンビア響の音の良さはどうだろう。《運命》の長いフェルマータにも仰天したが、一番心に響いたのが《V字》の第1楽章アレグロの軽快なテーマ

ほんのさわりの部分を聴いたに過ぎないが、明瞭なステレオ録音によって、緻密なアンサンブルから繰り出されるみずみずしい主題が耳に心地よく、細やかなニュアンスはもとより、血の通った人間の温かみすら感じさせるワルターの演奏は、どこか別の次元の音楽のように思えた。

このコロンビア交響楽団とは、いかなるオーケストラだったのか? これはレコーディングのために組織された臨時のオーケストラで、ロスアンジェルス・フィルのメンバーを中心にした約50名程度の編成であったことが知られている。


sv0024d.jpgストコフスキーの交響楽団でも活躍したイスラエル・ベイカーがコンサート・マスターを務め、ワルターを慕って東海岸から馳せ参じてレコーディングに参加した楽員もいたらしい。

このオーケストラに関しては否定的な意見もあるが、プルトを減らすことで室内楽的な響き緻密なアンサンブルを実現しているのが大きな魅力といってよく、とくにハイドンやモーツァルトでは成功を収めている。

演奏は決して“一丁上がり”的なものではなく、入念なリハーサルを重ねて質の高いものに仕上っていることが演奏からも判るだろう。

amazon  TOWER RECORDS  HMVicon 【Blu-spec CD】

「なんとあたたかい音楽だろう。ゆっくりしたテンポで通しながら、そこには味わい深い音楽がみちあふれている。古典的な格調も高い。ハイドンの音楽の本質は、こうした演奏ではじめて伝えられる。明朗で、のびやか、巨匠的な大きさをもった無類の演奏である。」 「歴史的名100選」より小石忠男氏による、『レコード芸術』通巻第381号、音楽之友社、1982年)


「このハイドンは実にふくよかな情感を古典の造形に融合させたワルターならではの名演である。V字は第2楽章のおそいテンポの歌が、現在の演奏には求められぬもので、その味わいは、ゆたかで、深い。絶品といえる。」 小石忠男氏による月評より、20AC1801、『レコード芸術』通巻第401号、音楽之友社、1982年)



第1楽章 アダージョ-アレグロ
《V字》(Letter V) と呼ばれるト長調の交響曲は、ロンドンで出版された時にハイドンの交響曲にAからはじまる記号をつけて、第88番の表紙にVを、第89番にWの字を付けたことに由来する。

「ハイドンの数多い交響曲の中で、古来、大指揮者と呼ばれる人たちに最も好まれたのは、《驚愕》でも《軍隊》でもなく、この地味な《第88番》である。特別に親しみやすい旋律が出てくるわけでもなく、アダ名にしても《V字》という、たいして意味のないものがついているだけだが、音楽的には充実感がすばらしく、何度聴いても飽きがこない。」 『改訂新版・宇野功芳のクラシック名曲名盤総集版』より、講談社、2007年)


sv0024e.jpgシャッキリと打ち込む心地のよい和音打撃と弦の優美な呼び交わしの序奏からして、ワルターの術に魅せられてしまう。主部は、サクサク弾む弦が小気味よく駆け走り、管を加えて強奏反復する第1主題の心地よさといったら! 裏拍から加わるバスの対位的な16分音符の伴奏動機のザリザリとした触感が抜群のステレオ感で迫ってくる。

amazon  TOWER RECORDS  HMVicon

sv0024n.jpg

弦の刻みを交互に打ち返すコデッタ(小結尾)楽想のみずみずしさも抜群で、ゼクエンツの一糸乱れぬコロンビア響の合奏美を心ゆくまで堪能させてくれる。老巨匠は得心のゆくまで精緻なセッションを行ったというのも、なるほどと頷けよう。[提示部の反復なし]

sv0024g.jpg
展開部(104小節)は冴えた弦楽アンサンブルが生き生きと躍動する。バスの16音符の伴奏動機をヴァイオリンが受け持ち、これが華麗に展開するところはゾクゾクさせる場面といってよく、内声の第2主題を第1主題に織り重ねる部分も決して鈍重にはならず、音楽はクリスプな味わいがある。

amazon

フルートが小躍りするようなオブリガート装飾で典雅な気分を運んでくる再現部(179小節)は、188小節から伴奏動機が主役になって、練りに練ったアンサンブルを展開するところが大きな聴きどころ。楽想はスコアの隅々まで見透かされたかのような明晰な造形と冴えたリズム感覚によって、器楽アンサンブルの妙味を堪能させてくれる。


第2楽章 ラルゴ
sv0024h.jpgユニゾンのオーボエとチェロの独奏が奏でる美しい主題は、賛美歌《すべての恵みを垂れ給ふ神を讃える》から採られたものだ。老巨匠は名旋律と5つの変奏を、おそいテンポでしっとりと情感を込めて歌い込む。

近接マイクによるオーボエと肉感のあるチェロが、とろけるようなハーモニーを紡ぎだしているのがたまらない。
amazon
sv0024o.jpg

「第2楽章は、おそらく、これ以上は無理ではないかと思えるほど遅いテンポでたっぷりと歌っている。もう今では、このような演奏は行わないが、このテンポで悠揚と歩むワルターの音楽は、ゆたかで、深い。ほかの楽章も、ふくよかな情感をたたえた演奏である。このような解釈が可能なのは、ひとりワルターのみであろう。」 小石忠男氏による月評より、28DC5032、『レコード芸術』通巻第454号、音楽之友社、1988年)


sv0024i.jpgたおやかな弓使いでため息のように応える第2フレーズ、シルキーな弦の装飾を配した第1変奏、フルートとヴァイオリンが静謐に歌う第2変奏、滑り込むように第1ヴァイオリンが主題を彩る第3変奏など、老巨匠は憂いのあるニュアンスを賛美歌の楽想に入念に擦り込んでゆく。18小節でさりげなくテンポをおとすところなど涙もの。

amazon  TOWER RECORDS

ヴァイオリンとチェロが纏綿と奏でる第4変奏(83小節)も思わず悲しくなってしまうが、主調にもどる第5変奏では小鳥を模したオーボエのチャーミングな合いの手(96、98小節)を添えるあたりも心憎く、そのやさしい模声が心にしみてくる。


第3楽章 メヌエット、アレグレット
sv0024j.jpgメヌエットは精妙なアンサンブルと洗練された響きの美しさが際立っている。スピード感あふれるフレージングに落ち着きのあるリズムを配し、音楽はみずみずしく冴えわたる。驚くべきはアウフタクトの装飾音ハネあげるような歯切れの良さは名刀もかくやと思わせるもので、切れ味と鮮度の高さは抜群である!

amazon  TOWER RECORDS  HMVicon

トリオのレントラー舞曲は、「ぶい~」とバクパイプのようなドローンを内声部ともなっているのがユニークで、ト短調の後半はいくぶん翳りを帯びながら、木管と弦が正確無比なスタッカートで緻密に協動するところも聴きどころだろう。
sv0024p.jpg


第4楽章 フィナーレ、アレグロ・コン・スピーリト
sv0024k.jpgサクサクと軽快に弾む終楽章は愉悦の極みとしかいいようがない。名人芸をひけらかした類のものでは決してなく、周到にリハーサルを重ねた手作りの味わいが、えもいわれぬ温かみを醸し出している。

活き活きとハネる装飾音や、気持ちのよい小刻みの走句など、フレージングひとつをとってもワルターの意図が楽想の隅々まで行き渡り、みずみずしい音楽を巧まずして際立たせている。

amazon  TOWER RECORDS
sv0024q.jpg

展開部(84小節)ではコロンビア響の弦楽セクションが、腕によりをかけて第1主題の変奏を料理する。爽やかな気分で駆け掛け走る愉悦感は無類のもので、再現部のさっぱりした終止打撃の後に、第2主題を弾きとばして一気呵成にコーダに突進する目の覚めるような躍動感も次元を超えたものといえる。

録音会場に選ばれたアメリカン・リージョンホールは、天井の高い、木で内装をほどこした古い造りの中型の集会場で、まるで教会堂を思わせる柔らか味のあるゆたかな残響が耳に快い。老境のワルターが見せたたおやかな抒情性と緻密なアンサンブルで聴き手を魅了する極上の一枚だ。


人気ブログランキングへ この記事を面白いと思った方はクリックをお願いします
このエントリーをはてなブックマークに追加

[ 2014/10/07 ] 音楽 ハイドン | TB(-) | CM(-)