ヒラリー・ハーンのバッハ/2つのヴァイオリンのための協奏曲

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バッハ/2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調 BWV1043
ヒラリー・ハーン(第1ヴァイオリン)
マーガレット・バトヤー(第2ヴァイオリン)
ジェフリー・カヘイン指揮 ロサンゼルス室内管弦楽団
2002.10 Hervert Zipper Concert Hall, Los Angels (DG)
Recording Producer: Thomas Frost
Balance Engineer: Tom Lazarus
Length: 14:16 (Digital)
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デビュー盤から7年、ドイツ・グラモフォン(DG)への移籍第1弾となった記念すべきアルバムに、ハーンは十八番であるバッハの《協奏曲集》をぶつけてきた。ハーンがソニーからDGに移籍した経緯は詳らかではないが、われわれの目にはDGの戦略と相まって、ハーンが得意とするバッハで勝負を仕掛けたという印象がつよい。しかし、ハーンによると、偶々ソニーの企画をDGが引き継いだだけで、特別な意図はなかったという。

sv0029b.jpgここでは24歳のハーンが、とてつもない速いテンポで颯爽と駆け走るのが特徴で、歌謡的な楽想をそよ風のように清冽に歌い、生き生きと踊る。厳粛で深遠なバッハを求める者にとっては、性急で深みに乏しいと見る向きもあるが、そのスタイルは洗練を極め、聴いた後では爽やかな新鮮味が勝ってしまう。これはきわめてスタイリッシュな感覚で仕上げた現代風のバッハといえないか。

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相方の第2ヴァイオリンを受け持つのは、ロサンゼルス室内管弦楽団のコンサート・マスターをつとめるマーガレット・バトヤー。ここでは対位的な声部をハーンとほどよく調和しながら、目立たぬところでハーンの妙技を引き立たせているところが心憎く、第3楽章では難技巧のパッセージをハーンと互角以上に渡り合い、ソロ奏者としても腕を鳴らした玄人ぶりを発揮しているのは嬉しい不意打ちだろう。

「ハーンらしいセンスが光る溌剌とした演奏である。これはあくまで現在のハーンの解釈というべきだろうが、バッハの協奏曲から自分が読み取ったものを自身をもって奏で、その音楽を存分に味わい楽しんでいるようである。カハーンとロスアンジェルス室内管弦楽団も、少し勢いにかられる感じもあるが、そうしたハーンに若々しい推進力にとんだ演奏で呼応しており、第2ヴァイオリンのバトヤーとオーボエのフォーゲルも、その能力を存分に発揮し、好演している。4曲を聴きつづけてゆくと、緩急の変化が少々型にはまった感じがしないでもないし、時にはもう少し深い翳りのある表現も聴きたいところもあるが、颯爽とした生気あふれる演奏は、これらの協奏曲にとても新鮮な光を当てている。」 歌崎和彦氏による月評より、『レコード芸術』通巻第638号、音楽之友社、2003年)



第1楽章 ヴィヴァーチェ
sv0029c.jpgトゥッティの颯爽とした音楽運びに仰天するが、ニ短調に完全終止したあとにはじまる10度跳躍のソロ主題(22小節)を、第1ヴァイオリンのハーンがフレッシュな感覚で弾きあげる。清楚で気品があり、しかも力強さを感じさせる弓さばきは闊達自在の一語に尽きるといってよく、歌い回しの巧さや、スタッカートの歯切れ良さなど、冴え冴えとした技巧に思わず膝を打ってしまう。   amazon
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4小節あとに模倣するバトヤーの第2ヴァイオリンは、ハーンに聴き劣りするのは否めない。とくに2度目の模倣(38小節)ではバトヤーの弓の切れがあまく、16音符の仕上げに粗さすら感じさせるのが残念で、ハーンの精緻なボウイングと麗しく照り輝く高音を目の当たりにされてはバトヤーも出る幕はなく「これはちょっとヤバい」と焦ったはずだ。

sv0029d.jpg聴きどころは、トゥッティ主題の繰り返しのあとに、ソロ主題を華麗に展開する50小節。独奏パートは8分音符と16分音符の分散和音を交互に織り上げてゆくが、トゥッティを挟んで交代する58小節など、どちらが第1でどちらが第2かまったくわからぬ緊密ぶりで、互いが絶妙の呼吸でピタリと寄り添いながら主題を紡いでゆくところの高度でプロフェッショナルな技に思わず唸ってしまう。

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16分音符の筆勢の強さではバトヤーがハーンに勝るとも劣らぬ弓さばきで主張しつつも、ここ一番でさりげなく脇役にまわり、ハーンの細やかなニュアンスに彩られたなめらかな高音を下の声部でしっかりと支えて調和させているあたりは芸格の高さを感じさせる。ソロ主題の再現は、調子の上がってきたバトヤーが、ハーンの独奏を意図的に模倣するかのようなフレージングによって、抜群の存在感を示している。


第2楽章 ラルゴ・マ・ノン・トロッポ
sv0029e.jpgラルゴは、バッハの創作した最も美しい楽章のひとつに数えられ、「この切々と胸を打つ名旋律は、一度耳にしたら生涯忘れることは出来ないであろう。」(志鳥栄八郎氏による)

この名旋律を、ハーンは歌謡性をたっぷり生かして微風のように清冽に歌い上げる。伸びやかに澄んだ気高い歌の美しさはハーンならではの魅力といってよく、いつ果てるとも知れぬ綿々とした流れの中に哀愁をしっとりと漂わせているところは、ハーンの底知れぬ音楽性を示してあますところがない。
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やや低い声部を模倣的に受け持つバトヤーの第2ヴァイオリンは、いくぶん潤いには欠けるが、ほどよきバランスでハーンと調和しながら、しっとりと対話を重ねるように歌い込んでゆくところが聴きどころだろう。主題の再現(10小節)から、ハーンが16分音符の分散和音に艶をのせて麗しく歌い回すところの美しさといったら! 

sv0029f.jpg最高音にリテヌートをかけて、濡れたように歌い上げる“ヒラリー節”のテンポのこまやかな揺らぎもたまらない魅力で、エピソード的に挿入される間奏風の旋律(16小節)の低音部の深味のある音や、第2主題(17小節)の熟れた官能の臭いが立ちこめるような温もりのある歌と、高音部の磨き抜かれた美音もハーンの真骨頂。

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中間部(24小節)は、16分音符の綾を交互に織り上げる中を飛翔するフレーズの稟とした味わいも格別で、音に溺れることなく、適度に抑制されたヴィブラートを用いて、バッハの核心に真摯に迫ろうとするハーンの楽の音は詩的な情緒に溢れんばかり。これ見よがしにヴィブラートを多用し、甘い香りをまき散らすキザなハイフェッツ盤を聴き慣れた耳には汚れのない清新な味わいがあり、そこはかとない哀しみが淑やかに綴られる結尾も涙ものである。


第3楽章 アレグロ
sv0029g.jpg独奏ヴァイオリンの妙技を心ゆくまで堪能させてくれるのがアレグロの音楽だ。ストレッタされたカノン形式によって、2台の独奏楽器が目まぐるしい勢いで、追いつ追われつの強奏展開をするところは聴き手をゾクゾクさせてくれる。

ここではハイフェッツのテンポを遙かに凌ぐハーンの鋭い踏み込みに驚かされるが、均整のとれた造形をいささかも踏み外すことなく、「こんなものは屁のカッパ」といわんばかりに、「つん」とすまして裏拍から飛び出すフレーズをクールに決めるハーンの演奏を、あの世でハイフェッツが聴いたら地団駄を踏んで悔しがるに違いない。
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sv0029h.jpg第1、第2楽章ではハーンの妙技の影で脇役に甘んじていたバトヤーだが、ここでは一転して「こんな小娘に負けてたまるか」といわんばかりに、女の意地とプライドをかけて弾き飛ばすさまがスリリングの極みで、両者のとてつもない緊迫感が張り巡らされている。といっても殺伐とした女の闘いを繰り広げるわけではなく、ピタリと息の合った呼吸と冴えたテクニックによって、両者が生き生きと弾むように駆けるところは感興たっぷりだ。

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大きな聴きどころは、独奏パートの音型が完全に合一する41小節(および127小節)。7小節にわたって重音奏法で激しく和声を打ち続けるところは、いたずらに強圧的にならず、強弱をつけながら2人の独奏者が協調する中を、下の声部で第1主題をどっしりと聴かせるところは指揮者カヘインの腕の見せどころだろう。

sv0029i.jpg再現とトゥッティの後に、大バッハはもうひとつのご馳走を用意する。第1ヴァイオリンが16音符の分散和音で揺れ動く中から 第3主題ともいうべき伸びやかな旋律が第2ヴァイオリンによって歌われるが、これをバトヤーとハーンが交互に歌い合い、一方が華麗な分散和音で闊達に舞うところの溌剌としたリズム感覚が聴き手の耳を刺激する。

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「このアルバムを聴きながら、みなさんもゆっくりとした楽章では旋律を口ずさみ、速い楽章では爪先で床を鳴らし、曲に合わせて踊っていただけたら、(もちろん自分の家で、ですが)、幸いです。どうぞ、私たちとご一緒に! きっとバッハも喜ぶと思います。」(ヒラリー・ハーン)


ストレッタの第1主題のあとに現れる3連音を絡めた楽節を、いささかの迷いもなく勢いよく上り詰め、力強い全合奏で全曲を爽やかに締め括っている。一点の濁りもない精緻なポリフォニーを堪能させてくれるスタイリッシュな《ドッペル》だ。


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[ 2014/11/30 ] 音楽 J.S.バッハ | TB(-) | CM(-)