ヒラリー・ハーンのバッハ《シャコンヌ》

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バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番
ニ短調 BWV1004
ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)
Recording: 1996.6.17-18,12.23,1997.6.17-18
Location: Troy Savings Bank Music Hall, New York
Producer: Thomas Frost (Sonny)
Engineer: Richard King
Length: 33:16 (Digital)
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ヒラリー・ハーンといえばバッハ。バッハといえばヒラリー・ハーンが思い浮かぶほど、彼女の名刺代わりで原点ともいえるのが無伴奏ソナタ。17歳のときに録音したデビュー・アルバムはハーンが絶対の自信をもってぶつけた“勝負曲”といえる。

sv0029c.jpgバッハの無伴奏ソナタはヴァイオリン奏者にとってバイブルといえる曲で、その中の3つの組曲はパルティータとよばれ、自由な形式の舞曲を特徴とする。第2番は5曲で構成されるが最後に置かれた《シャコンヌ》がとくに名高く、スペインの古い形式の舞曲に起源をもつという。

バスの声部を64回繰り返し、その上に30の変奏を築き上げるという全257小節の大曲で、古今のヴァイオン奏者にとって高度な技巧と深い精神性が要求される最高峰の作品だ。
  Original Album Classics

「いきなりバッハの無伴奏曲をぶつけてくるところからして尋常ではない。よほどの音色と技術がないと“暴挙”ともなりかねない。ハーンの演奏はそうした懸念を見事に粉砕してくれる。1音1音に対する妥協のない音質作りは出色で、表現はそうした音色美に酔うことなく整然と整えられていく。音色の余韻を配慮したのびやかな歌いまわしは心に染み入るようだし、フーガやシャコンヌなどのテクスチュアの際立たせ方も鮮やかである。疑いもない逸材である。」 斎藤弘美氏による月評より、SICC354、『レコード芸術』通巻第652号、音楽之友社、2005年)


「いきなりバッハの無伴奏というのも驚きだが、その演奏が素晴らしかったから、さらに度肝を抜かれた。ピンと張った緊張感、推進力、迷いのない強固な意志、鮮やかなテクニック、どれも圧倒的で、その印象はいまだに色あせない。彼女の原点であると同時に、今もなお、代表盤だろう。特別なコンクール歴なしにこういう才能が登場してくることにも、当時は考えさせられた。」 ONTOMO MOOK 『20世紀の遺産』より、山崎浩太郎氏による、音楽之友社、2011年)



第1楽章 アルマンド ニ短調、4分の4拍子
sv0044m.jpg弦をゆたかに鳴り響かせ、ゆったりしたテンポで入念に紡いでいくスタイルがハーン流。連続した16分音符の中にちりばめられた32分音符や3連音符にヤクザな崩しを入れることなく、ほどよき緊張感を保ちながら、フレーズを淀みなくさばいてゆく。

聴かせどころはツボを押さえたように最高音をリテヌートし、これを見得を切らずに決めるあたりが心憎く、重音の清楚な美しさもハーンならでは。

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第2楽章 クーラント ニ短調、4分の3拍子
sv0044n.jpgヴィヴァーチェの速い舞曲は、8分音符の3連音と付点音符を組み合わせた躍動感あふれる楽想で、付点をたっぷり弾んで気持ちがいい。全体の筆致はまろやかで、技巧の切れという点では控えめだが、第2部のなだらかに上下する3連音処理を円舞曲のように仕上げるあたりはハーンの真骨頂。舞曲の愉悦を気高くまとめている。決めどころの重音の冴えた響きも絶品といえる。

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第3楽章 サラバンド ニ短調、4分の3拍子
sv0044o.jpgシャコンヌによく似た8小節を繰り返す荘重なサラバンド主題は、適度なねばりに艶をのせて、ハーンはしなやかに歌いぬく。ここでは深淵な楽想に思い込め、1864年製のヴィヨーム(J.B.Vuillaume)のゆたかな重音の響きを堪能させてくれる。決して安直に弾き流さず、16分音符を保持して格調高く仕上げるところはハーンの面目が躍如している。

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第4楽章 ジーグ ニ短調、8分の12拍子
sv0044p.jpgみずみずしいハーンの感性を最大限に発揮したのがジーグ。アルペジオと分散和音を組み合わせた16音符の細かい走句を水も漏らさぬしたたかさで、いとも軽やかに弾きあげている。つんとすまして「こんなものは屁の河童」といわんばかりのハーンの演奏を老大家たちに聴かせたら、地団駄を踏んで悔しがるに相違ない。

第2部5小節のと8小節のリテヌートに驚かされるが、最低音と最高音でぬめるように歌う“ヒラリー節”が即興的で、型にはまらぬ生き生きとした弓運びが印象的だ。

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第5楽章 シャコンヌ ニ短調、4分の3拍子
第1部 ニ短調(主題と第1変奏~第15変奏)1~132小節
ハーンの底知れぬ実力を知らしめるのが作品の中核をなす〈シャコンヌ〉だ。ここでハーンはきわめて遅いテンポをとり、アンダンテもしくはグラーヴェとされる楽想を入念に歌い込む。

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sv0029a.jpgねっとりと太い音で歌いつつ、「ガッ」と噛みつくような重音を轟かせる第1変奏、細やかなヴィブラートをかけて澄みきったハーモニーを響かせる第2変奏から早くも聴き手を酔わせてくれるが、ハーンが本領を発揮するのは、ゆるやかな8分音符へと音型が変わる第3変奏 [1:38] からだ。

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スケールの大きな構えと絶妙の節回によって、16分音符のフレーズを伸びやかに歌いまわすところはすこぶる感動的で、高い音から低い音へ急速に変化する複音楽的な第4変奏の深みのある音、香気がゆるやかに立ちこめる第5変奏 [2:43]、 分散和音で揺らぎながら哀しみを掘り下げてゆく第6変奏 [3:16]、 そこからクライマックスへとのぼりつめる密度の濃い歌など、バッハの核心に迫ろうとするハーンの鋭い技巧とひたむきさな情熱が筆者の心をとらえて離さない。
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「バッハだけは私にとって特別なもので、ちゃんとした演奏を続けていくための試金石のような存在です。重音の部分できれいなイントネーションが出せるか、フレーズごとに変化に多彩な音色が出せるか、不用意なアクセントを付けずに弦の上を滑らせることが出来るか-どれひとつとしてバッハは誤魔化しがききません。逆に全部うまくこなせれば、この上なくすばらしい音楽が歌い始めます。」 ヒラリー・ハーン、バッハを語る、渡辺正訳、ソニー・ミュージック・ジャパン、1997年)


大きなクライマックスは第7変奏 [3:49] から。2声の肉付きの良いこなれた音によって、ウェットな情感を込めて纏綿と奏でる音楽はバッハの精神を極めた感があろう。
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sv0029g.jpg32音符の波にのって上下にたゆたう第8変奏 [4:16]はハーンの冴えた技巧の独壇場で、流麗闊達に歌いつつ、これを阻止する低音部のきっぱりした弓さばきは大家の風格すらただよわせている。すすり泣くようなピアニシモを聴かせる第10変奏 [5:11] も印象的で、後半では32分音符を水を得た魚のようにひた走る軽やかさが耳の快感を誘っている。

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sv0029h.jpg第1部の総仕上げは第11変奏から第14変奏にかけての長大なアルペジオ [5:48] 。緩急自在とはまさにこのことで、32分音符の中に潜むレガート、スタッカート、3連音形を駆使した複音楽的なフレーズを変幻自在に伸縮させてバッハの歌を聴かせるところは圧巻で、頂点に達する第15変奏 [8:04] シャコンヌ主題の原型が再現する‘決めどころ’の妖しいまでの美しさといったら!

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第2部 ニ長調(第16変奏~第24変奏)133~208小節
ニ長調に変わる第16変奏 [9:00] から、ハーンは柔らかな和音を重ねて聴き手の心にやさしく微笑みかけてくれる。柔和で細やかな語り口によって、明日への希望と生きる勇気をあたえてくれる第17変奏 [9:34] 2声の心の歌は涙もの。
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sv0044r.jpg太い音で揺れる低音部と華麗に舞う高音部の歌が協調しながら眩いほどの気品を湛えている。心にしみ込むような清冽な分散和音第18、19変奏)と、情熱が迸るかのように2声で絶叫する第20変奏 [11:20] は美麗の限りが尽くされている。

中間部のクライマックスは言うまでもなく第22、23変奏 [12:23]。ここでは原型に近いシャコンヌ主題をゆたかな和声で鳴り響かせ、「これでもか」と美音を重ねて高音域へとのぼりつめるところはハーンの究極のバッハ像が開陳されている。

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sv0044q.jpg心が浄化されるような清らかさと深い瞑想が一体となり、冴えた技巧と調和しながら絶頂へと到達する場面はじつに感動的で、仕上げに濁りのない和音を重ねる第24変奏アルペジオ [13:29] の神々しさは、“天国の浄福”としか言いようがない。

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「バッハはモナ・リザの微笑のように、最も大事な部分は捉えにくいのです。バッハの音楽は人間の本質を表現し、光と影、孤独と交わり、高揚感と深い哀しみといったさまざまな要素がその中でひとつになっていると言う人もいます。聴き手は葛藤から美しい解決へと導かれます。解決に出会って満ち足りた気分になっても、すぐにまた探り出させるのを待つかのような別の表現が現れます。これはバッハのすべての作品に共通して言えることだと思います。」 ヒラリー・ハーン、バッハを語る、木村博江訳、ユニヴァーサル・ミュージック、2003年)



第3部 ニ短調(第25変奏~第30変奏)209~257小節
sv0044s.jpg原調にもどる第25変奏 [14:04]は、ふたたび第1部の瞑想的な気分がもどってくる。分散和音で神秘的に揺れる第26変奏は、無我の境地で楽の音を奏でるハーンのクールな一面を見せているが、あくまで最後のクライマックスへ到達するための序奏にすぎない。

ふたたび哀しみの表情を湛えながら(第27変奏)、後半にあらわれる16分音符を互い違いに貼り合わせたような保持音型とその下の声部をたっぷりと聴かせ(第28変奏)、これがドラマチックに盛り上がってゆく。

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上昇3連音から波打つように第30変奏の頂点[16:59]へ駆けのぼるところの華麗にして緊迫した表情は堂に入ったもので、非のうちどころのない高度な技巧と集中力によって厳粛に弾き出されてゆく。終曲のぴたりと決まる音程、切れのある弓さばき、磨き上げられた重音とトリルを存分に響かせて全曲を美しく結んだ感動の一枚だ。

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【エントリー記事】ヒラリー・ハーンのバッハ/2つのヴァイオリンのための協奏曲

[ 2015/05/30 ] 音楽 J.S.バッハ | TB(-) | CM(-)