カラヤン=フィルハーモニアのベートーヴェン〈第9〉

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ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調 作品125「合唱付」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
フィルハーモニア管弦楽団&ウィーン楽友協会合唱団
Soloist: Schwarzkopf, Höffgen, Haefliger, Edelmann
Recording: 1955.7.24,25,28,29 Musikverein, Wien
Producer: Walter Legge (EMI)
Engineer: Dougls Larter
Length: 65:32 (Mono)
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筆者の青春時代はカラヤン=フィルハーモニア盤と共にあったと言っても過言ではない。当時、カラヤンはベルリンフィルの指揮者として飛ぶ鳥を落とすがごとく勢いで楽界の帝王に君臨し、その地位を揺るぎのないものにしていた。しかし、レギュラー価格のベルリンフィル盤(グラモフォン)は学生の筆者には“高値の花”で、名曲が選り取り見取りの組み合わせで安く売っていたフィルハーモニア盤(東芝)に手が伸びて、音楽通を自認する友人たちに白い眼で見られたものだった。

このフィルハーモニアの第9は、40代後半の新進気鋭のカラヤンが指揮した覇気にとんだ演奏で、弦楽器のノーブルな味わいや“ウォルター・レッグのロイヤルフラッシュ”と讃えられた木管楽器のパフォーマンスに魅了される。何よりも素晴らしいのが歌手陣の豪華さ。プロデューサーのレッグの妻でもあったシュヴァルツコップをはじめ、脂ののった30代半ばのヘフリガーの艶美な歌声を味わえるのが大きな魅力で、フルトヴェングラーのバイロイト盤に引けを取らぬ独唱陣の見事な歌唱を堪能させてくれる。

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当時のLPは電気的にステレオに加工した疑似ステレオ盤(当時は“ニセステ”とよばれていた)だったが音の状態は良好で、ステレオの拡がり感も自然なもので満足のいくものだった。ウィーン楽友協会の合唱も秀逸で、モノラル録音ながらホールの残響をたっぷり取り込んだ楽友協会での収録もここでは成功をおさめている。

「音は想像していたよりよほど良い。演奏はさすがに引き締まって覇気がある。音楽に勢いがある。そしてつい先日の最新全集にくらべると、カラヤンの顔ではなくてベートーヴェンの顔が私たちの眼のまえに見える。大胆さと、後にその方向が強まってゆく細心さとが入りまじって起状に富んだ心の動きが開示されている。これはたしかに有望このうえない指揮者であったあったわけだ。この声楽陣はすでにあらゆる機会に言われてきたことだが、本当に充実したものである。」 大木正興氏による月評、『レコード芸術』通巻第328/332号、音楽之友社、1978年)


「内容は期待を裏切らないきわめて丁寧な仕上がりになっている。後年の、ともするとオートマティックに生産されるような無機的な感触はここにはいっさいなく、音ひとつひとつを手作りの丁寧さで磨き上げている。これは壮年期(この頃は40代半ば)のカラヤンの特徴のひとつと言えるだろう。その結果、どの演奏にも生命感溢れる奔流のような勢いがそなわっている。第9番《合唱》は往年の名歌手ショヴァルツコップ、ヘフゲン、ヘフリガー、エーデルマンといった錚々たる顔ぶれ。カラヤン・ファンにとっては貴重なアーカイヴとなるだろう。」 草野次郎氏による月評、『レコード芸術』通巻第692号、2008年)


この第9が録音された1955年のシーズンは劇的な変化が生じ、カラヤンは多忙を極めていた。前年11月にフルトヴェングラーが突然亡くなり、 2月にその代役で米国公演を引き受けてベルリンフィルの首席指揮者に内定して間もない頃で、10月にはフィルハーモニア管との米国ツァーも控えていた。

フランス人の若いモデル、エリエッテ・ムーレ(この時22才で後のカラヤン夫人)との付き合いが密になり、2度目の妻アニータとの離婚を真剣に考えはじめたのもこの頃だ。まさに将来への展望が大きく開かれ、カラヤンが心身共に最も活力が漲っていた時期であった。このような状況のもとで名演奏が生まれぬはずがない。


第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ
sv0005b.jpg6連符のトレモロの中から確信を持って立ち上がる音楽は勢いがあり、第1主題が奔流となって湧き出る見通しの良さは抜群である。

第2主題の弦の優美な歌い口や流れるようなフレージングも印象的だが、特筆すべきはA、Dのティンパニのリズム打ち(120小節)で、これが独特の躍動感を生んでいる。リズミカルな木管楽器との掛け合いや、颯爽と前へ進むテンポの良さなど、深遠なフルベンとはおよそ対照的といえる。
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展開部(160小節)は、哀調を帯びた木管と、角張ったところのないみずみずしい弦のフガートによって主題は清冽に流れてゆくが、強音は杭のようにしっかりと打ち込まれているために音楽はいささかの弛緩もない。ポエジーな木管アンサンブルの名技(266小節)、ゆたかな低音弦(279小節)、第2主題部のやわらかなフレージングの妙味(284小節)といい、カラヤンの手の内に収めた聴かせどころは枚挙に暇がない。

嵐のようなクライマックスに突入する再現部(301小節)は、フルベンのように無我夢中に荒れ狂ったものではなく、造形を崩さず、清新溌剌とした筆運びで聴き手を魅了するのがカラヤン流。大きく弾みを付けてすすむコーダ(427小節)は悲劇的な気分を擦り込みながらヒロイックに立ち振る舞う音楽がカッコよく、テンポを早めて頂点へ向かう場面では闘争の精神が自ずと湧き上がってくるのがカラヤンの巧いところだ。

木管が美しく歌い継ぐ中を弦が「ぐい」と力を増して弾ききるところ(488小節)や、早いテンポの分散和音(531小節)から一気呵成に壮大な第1主題を導き出すスケール感も無類のもので、小細工なしの直球勝負でとどめを決めるカラヤンの確固たる自信に充ちた棒さばきに快哉を叫びたくなる。ここでは、501小節の第1ヴァイオリンをオクターブ上げたり、538小節に32分休符を入れることなく楽譜に忠実に演奏している。


第2楽章 モルト・ヴィヴァーチェ-プレスト
sv0005g.jpgスケルツォは絶妙のリズムさばきでキビキビと早いテンポで駆け抜ける。緻密な弦のスピッカートやシャッキリとしたリズムの切れは特筆モノで、副主題のファンファーレ(93小節)を快活に弾んで感興を高めている。

リズムをしっかりと踏みしめる第2スケルツォも躍動感たっぷりで、ストレッタ的に追い込むクライマックスのエネルギッシュな棒さばきは、才気煥発なカラヤンの本領発揮といえる。

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レッグによると、カラヤンはレコーディングの時に他人のレコードをスタジオに持ち込んで、これを聴いては指揮に戻るということをやっていたらしい。このセッションもトスカニーニのレコードを直前まで聴いていたため、レッグはテンポが早くなりすぎないようにコントロールしたという。 参考:井阪紘著『巨匠たちの録音現場』、春秋社、2009年)

トリオ(412小節)はみずみずしい木管の妙技を堪能させてくれる。とくに牧歌的な舞踊主題を軽快に奏でるオーボエのカデンツァや、低音弦からたっぷりと織り込むフガートの心地良さ、ヴィオラとチェロの対旋律を得意のレガートによって際立たせるなど、みずみずしい音楽が淀みなく流れている。


第3楽章 アダージョ・モルト・エ・カンタービレ
アダージョは柔和なカンタービレと歌心あふれるニュアンスの豊かさはお任せあれといったカラヤンの自信に充ちた棒さばきが印象的。情感を込めてたゆたう第1主題と清冽に流れる第2主題は自然に振る舞いながら、柔和で平和な気分が巧まずして導き出してゆく。聴きどころは主題変奏部でフィルハーモニア管の腕利きの奏者たちが心を込めて歌い出す。

sv0005c.jpgメロディアスな分散和音でメランコリックに揺れる第1変奏、管楽器が〈星空の高み〉を奏する詩情味溢れる第2変奏、16分音符に細分化された主題を弦が優美に織り上げる第3変奏など、フレーズを美麗に歌い上げるところはカラヤンの独壇場で、天上にのぼりつめるような気高い気分がそこかしこに流れている。

コーダのファンファーレはいたずらに力まず、適度なまろみを持たせているのも心地よく、女心をくすぐるようなエレガントな風情は、若きエリエッテの姿を夢想するカラヤンのしたたかさが浮かんでくる。

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パリの高級仕立屋のマヌカンとして働いていたエリエッテ・ムーレは、ある時友達に誘われて、シャンゼリゼ劇場にベルリンフィルの演奏を聴きに行った。この時、あこがれのマエストロにサインをもらいに楽屋をたずねたのが運命の出会いだった。サインのペンをゆるめてふとこの美しい娘を見たカラヤンの胸は高鳴った。彼女こそ、心に描いていた理想の女性であったのだ! 参考:福原信夫著「カラヤンこぼれ話」~レコード芸術別冊『指揮者のすべて'77』、音楽之友社、1977年)


第4楽章 プレスト-レチタティーヴォ
sv0005h.jpg雄渾な低音のレチタティーヴォから大きな流れを作って〈歓喜の主題〉へ盛り上げてゆく音楽運びがじつに巧妙で、いたずらに見得を切ったり、うねり回すような巨匠風の演奏とは一線を画したすがすがしい流動感が主題全編を貫いている。精気溌剌とした主題総奏と、一気果敢に雪崩れ込むプレストは若々しい覇気が漲っている。

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エーデルマン(38才)のレチタティーヴォは大きく豊かだ。年齢に似合わず歌に余裕と風格がある。これに対峙するオーケストラの活気に驚かされるが、〈歓喜の頌歌〉はシュヴァルツコップ(40才)、ヘフゲン(34才)、ヘフリガー(36才)といった絶頂期の名歌手たちをカラヤンは巧みに舵を取り、見事に調和させている。ウィーン楽友協会の合唱も秀逸で、「vor Gott!」がホールに息長く響いている音場は、これがモノラル録音とはとても思えない。

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大きな聴きどころがトルコ行進曲のアレグロ・アッサイ・ヴィヴァーチェ。ヘフリガーはフリッチャイ盤にも参加しているが、“テノール殺し”で綱渡りするフリッャイ盤に対し、当盤ではヘフリガーが〈太陽賛歌〉を気持ちよく、ゆとりをもって歌っているのが特徴で、決して気負わず、ヒューマンな温かみが放たれている。とくに後半の朗らかな調子で艶美に歌い回す高揚感がたまらない。「ここぞ」とばかりに急速に駆け込む弦楽フガートもカラヤンならではのカッコよさがあり、〈大合唱〉は溌剌とした躍動感に溢れんばかり。

sv0005f.jpgトロンボーンを加えた男声合唱の力強い〈抱擁の主題〉、天の高みへと清らかに上昇してゆく〈星空の彼方に〉、管弦楽と合唱を交えた壮麗な〈二重フーガ〉を堪能させてくれた後に、いよいよ最後の大見せ場がやってくる。

オペラのフィナーレを思わせるアンサンブルで、「あなたのやさしい翼の憩うところで」をソプラノから順にカデンツァを歌い継ぐところが最高の聴きどころだ。誰一人として突出することなく、カラヤンは4人の歌手を見事に調和させるが、最後に名花シュヴァルツコップが抜群の存在感を示している。

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シュヴァルツコップは来日の折、「あの頃は、カラヤンも忙しくなかったし、充分の日程をとって、みんなで楽しんで録音したものです。」と、当時を懐かしがっていたという。プレスティシモのコーダはまさにカラヤンの活力が演奏者全員に乗り移ったかのような精気溌剌としたフィニッシュで、トスカニーニが“世界最高”と称した万能オーケストラを思う存分に指揮し、真剣勝負で取り組んだ第9であった。筆者には思い入れの強い1枚だ。

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[ 2014/03/21 ] 音楽 ベートーヴェン | TB(-) | CM(-)