セルのベートーヴェン/交響曲第3番《英雄》

sv0069a.jpg
ベートーヴェン/交響曲第3番変ホ長調 作品55「英雄」
ジョージ・セル指揮
クリーヴランド管弦楽団
Recording: 1957.2.22,23
Location: Severance Hall,Cleveland
Producer: Howard H.Scott (SONY)
Disc: SRCR2542 (2000/8) Length: 47:22 (Stereo)
TOWER RECORDS  amazon  HMV
icon


筆者がベートーヴェンの《エロイカ》交響曲を最初に聴いたのは、トスカニーニ指揮NBC交響楽団の古いレコード(ビクター盤)だった。この演奏は直線的なスタイルによって貫かれていたが、細身だが強靱なフレージングカンタービレの効いた旋律の歌わせ方がたいそう魅力的で、この演奏が筆者の耳に擦り込まれて《エロイカ》の規範として定着してしまったように思われる。

sv0069g.jpgその後、同曲のステレオ録音を選ぶ際に、ワルター盤やカラヤン盤を後目に真っ先に手が伸びたのがセル盤だったのもトスカニーニのような演奏を期待したのかもしれない。

この時買ったCBSソニーのLPはナポレオンの絵のジャケットが印象的だったが、左右のスピーカーから分離してきこえる緻密なアンサンブルに驚いた記憶がある。とくにスケルツォの精緻なリズムトゥッティのダイナミズムは冠絶しており、対位法的な楽想をメカニックに分解し、各パートの動きが透かし彫りのように可視化した演奏は《エロイカ》の理想の演奏に思えた。
(写真はSOCL-33)


sv0069h.jpgトスカニーニとライナーを掛け合わせたようなセルは、楽員に妥協を許さぬ厳しいトレーニングを課したことで知られている。

音楽を細かくパート別に分解し、完璧なアンサンブルを組み上げる緻密さは“外科手術”にもたとえられ、セルがNBC交響楽団に客演した際にリハーサルで非情なメスを入れたとき、あのトスカニーニでさえ「私の音楽を壊さないでくれ!」と悲鳴を上げたほどである。


sv0069q.jpg当盤の初出は〈エピック・レーベル〉で7年かがりで制作されたベートーヴェン全集の中で最も古いものだが、録音は米コロンビアのスタッフが手掛け、かつては左右に広く拡がった「ステレオラマ」という名称で売り出されたという。

LPは固く引き締まったドライな音だったと記憶するが、2000年にDSDリマスタリングを施したCDはクオリティが高く、楽想から細やかな情感すら浮かび上がってくるようで、このコンビ全盛期の“鉄壁のアンサンブル”があますところなく刻まれている。

「この第3番《英雄》はセルのベートーヴェン交響曲シリーズ中、最初に録音されたものであり、また最もセルに合った曲目で、事実、名演の誉れ高い演奏を実現している。第1楽章、主要主題や、多くの副次的モチーフを明確なアーティキュレーションで示し、どの部分においても、特に長大な展開部においてそれは厳しくコントロールされ、表現の分散化を防いでいる。非常に集中度の高い演奏で、決して緊張を弛緩させない。演出的なものはほとんどないが、それゆえ、理屈抜きに感動する部分が多々ある。」 草野次郎氏による月評より、SRCR9849 、『レコード芸術』通巻第540号、音楽之友社、1995年)


「1957年の録音なので、CDでもいささか音の貧しさを感じるが、演奏は自然な流動感をもち、適度の緊張感に裏づけられている。全体としては古典主義的な音楽像だが、あらゆる部分にセルの人間的な息づきが示されており、強い説得力をもった演奏をつくっている。とくに終楽章の生命力ゆたかな表情はすばらしい。」 小石忠男氏による月評より、32DC483 『レコード芸術』通巻第419号、音楽之友社、1985年)



第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
sv0069b.jpg鋭い主和音のアタックからして尋常ではなく、緻密な弦の刻み目や、変拍子的なリズムをタテ割りで厳正に捌いて頂点に駆け上がる整然としたフレージングが気持ちいい。

引っかけては伸ばすバロック風のリズム(65小節)処理もじつに鮮やかで、ザクザクとピンポイントで打ち込む和音打撃が痛快である。

TOWER RECORDS  amazon  HMVicon

「セルのオーケストラ・トレーニングの厳しさには定評があった。大阪フェスティバルホールでの《英雄交響曲》のリハーサルの際、冒頭2つの和音の音色やバランスの調整に延々と時間をかけ、聞き手にはもはや完璧な出来だとさえ感じられるにもかかわらず、満足せずに練習を繰り返していたこともあった。「われわれの演奏は、リハーサルだろうと本番だろうと同じことだ。たまたま最後の1回に客が入ってくるに過ぎない」という楽員の言葉は、決して誇張ではなかったのである。」 『世界の指揮者名鑑866』より、東条碩夫氏による、音楽之友社、2010年)


大きな聴きどころは4つの素材を結合した闘争的な主題展開(186小節)。〈エロイカ・モチーフ〉の低音弦にバロック・リズムを織り合わせ、2種の切分音を重ねる手の込んだ楽想の構造をセルは明瞭に解き明かす。あたかも4種の素材を分解し、ネジの弛みを入念にチューニングして再構成したような抜群の分離感で迫ってくる。

sv0069l.jpg

sv0069c.jpgオーボエの下降動機をフガート的に展開するアンサンブルの妙技(235小節)も聴き逃せない。

パズルの目を噛み合わせたような精巧なリズム処理と、〈エロイカ・モチーフ〉の対位的な模倣を反復する中からトランペットが目の覚めるようなアタックを打ち込む決めどころ(276小節)に快哉を叫びたくなる。

TOWER RECORDS  amazon  HMV [SACD]
icon

再現部を宣言するトゥッティのダイナミズムや気品のある弦のトリル、モチーフをたっぷりと吹き上げるホルンやトランペットは、“英雄像”を厳正かつストレートに刻印するセルの慧眼があろう。

コーダ(565小節)はクリーヴランド管のアンサンブルが冴え冴えと展開する。木管が〈エロイカ・モチーフ〉を歌い継ぐ中で、弦のフィギュレーションが一分のブレもなく華麗に舞うところが最高の聴きどころ。その頂点(655小節)でツボを押さえたように主題をストレートに打ち込むトランペットのメタリックな高音に「これぞ英雄交響曲!」と心が躍っても無理からぬところだ。



第2楽章「葬送行進曲」アダージオ・アッサイ
sv0069d.jpgセンチメンタルに歌い流さず、寸分の隙や弛みも許さぬ緊張感に満ちた表現が貫ぬかれているが、節度を保って造形をぴしりと決めているのがセルらしい。

大きな聴きところが楽章のクライマックスたるミノーレの3重フーガ(105小節)。ここでは旋律線は控えめに、第2ヴァイオリンの対位を軸に、曲の骨格を剥き出しにしたような固く厳めしいリズムで弔いの音楽をシリアスに歌い上げている。
TOWER RECORDS  amazon  HMVicon [SACD]
sv0069m.jpg

変イ音のフォッティシモで立ち上がる〈最後の審判〉の場面(159小節)もすさまじい。地獄でのたうつような凄味のある低音弦と、静寂を引き裂き、断罪するようにつんざくファンファーレに戦慄をおぼえるのは筆者だけではないだろう。伴奏音形の揺らぎを伴った不安げな主題再現や、大きなルバートで纏綿と歌われる第2主題など、整然とした造形の中にもきめ細やかな情感がしっとりと滲み出してくる。



第3楽章「スケルツォ」アレグロ・ヴィヴァーチェ
sv0069e.jpg緻密なスタッカートで駆け走るスケルツォの精確無比なリズム捌きは“ジョルジュ・セル室内合奏団”の独壇場。セルは高度な室内楽的アンサンブルをオーケストラに拡大したような合奏の極限を開陳する。  TOWER RECORDS

ここではピアニシモの繊細な刻みとトゥッティで爆発するオーケストラのダイナミズムとの対比が素晴らしい効果を上げており、8分音符の刻みを活き活きと、精密に演奏するオーケトスラのヴィルトゥオジティに鳥肌が立ってくる。
弦を噛むように弓を入れて決めるスケルツォ終止の解像度の高さにも注目だ。

狩猟の角笛を模したトリオの三重奏は、パリパリと小気味よく吹奏するホルンの乾いた音が個性的で、強いアクセントを入れて音を割った効果を存分に楽しませてくれる。スケルツォの再現で突如拍子が変わる〈アッラ・ブレーヴェ〉(381-384小節)では、杭を打つような2拍子で堅牢な枠の中におさめる統率のとれたアンサンブルで聴き手を魅了する。

sv0069n.jpg

401小節から第2ヴァイオリンの分散和音形にアッチェレランドを仕掛けてコーダに向かって突っ走るのも超絶的で、めくるめくようなスビード感に酔ってしまいそうになる。



第4楽章「フィナーレ」アレグロ・モルト
sv0069j.jpg終曲は室内合奏団が7つの変奏を類い希なアンサンブルで聴き手を魅了する。

軽やかなフットワークで弦楽三重奏を聴かせる第1変奏、瑞々しい3連音をカルテットで奏する第2変奏、〈プロメテウス主題〉がオーボエによって感興ゆたかに導かれる第3変奏(第2主題)、弦のフィギュレーションと装飾的なフルートが華麗に舞う第4変奏、厳正なリズムで捌くハンガリー行進曲風の第5変奏など、名人芸的な練達のワザは枚挙にいとまがなく、古典的な均整を保ちながらも奏者が自由に生き生きと奏するところが聴きとごろ。

sv0069o.jpg
TOWER RECORDS  amazon

「セルは磨き抜かれたアンサンブルと明快なアーティキュレーションで、19世紀以来ベートーヴェンにまとわりついていたロマンの残滓をきっぱりと洗い流している。明晰な形式の中に力強い高揚感や音楽の生命力を漲らせ、このヴァリエーションの大意的な音の動きをこれほどクリアーに、俊敏に、かつ立体的に示した例はなく、その圧倒的な音楽的美観に聴いていて目頭が熱くなるほどである。」 『クラシック不滅の巨匠100』より芳岡正樹氏による、音楽之友社、2008年)



sv0069f.jpgクリーヴランド管が精密機械のようなメカニックなアンサンブルを展開するのが変奏の中に挿入した2つの〈フーガ〉

颯爽と駆け抜ける走句のみずみずしいフレージングと対位的な綾を緻密に織り上げるアンサンブルは器楽演奏のお手本といってよく、玄人集団はこれ見よがしな名人芸に溺れることなく、一糸乱れぬ端正な造形によって曲の隅々までを整然とまとめている。要所で突出させるホルンやトランペットも刺激的で、情感を込めてしみじみと歌い上げる第6変奏がすこぶる感動的である。  TOWER RECORDS


sv0069k.jpg最後のクライマックスは、〈プロメテウス主題〉が勇壮な姿となって現れる第7変奏(381小節)。「ここぞ」とばかり喨々と吹き上げるホルンの肉感のある音が耳の快感を誘っている。

主題を舞曲風にアレンジしたプレストの躍動感も冠絶しており、16分音符の連呼で炸裂するホルンが凄まじく、音階を力強く駆け上がって切れのある一撃で全曲を締めている。“セル室内合奏団”のアンサンブルの名技をあますところなく刻んだ1枚だ。  TOWER RECORDS

sv0069p.jpg


人気ブログランキングへ この記事を面白いと思った方はクリックをお願いします

このエントリーをはてなブックマークに追加

[ 2016/06/11 ] 音楽 ベートーヴェン | TB(-) | CM(-)